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日本人を分断した教育勅語(創発を生むミーム 2017/08/01号)
創発を生むミーム 2017/08/01号の「日本人を分断した教育勅語」の全文記事です。
 
2017/08/01号
日本人を分断した教育勅語

 教育勅語とは、戦前の日本の道徳教育に使われた、天皇から国民への訓示です。

 どのような道徳が説かれたかというと、このような文言があります。

”父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ”

 家族仲良くせよという訓示です。しかし、この家族は現代のわたしたちが考えるような家族ではありません。

 この当時の法で認められた家族制度に戸主というものがありました。家の中で一番偉い立場です。現在の核家族でなぞらえるなら、夫です。ただし、戸主は特権階級でした。戸主と跡取りは徴兵されませんでした(当時の日本は現在と違い徴兵は憲法で禁じられておらず、国民の義務でした)。家産の財産権は戸主にありました。離婚は戸主の特権でした。妻から離婚できませんし、財産分与もありませんでした(手切れ金の慣行ならありました)。子供の結婚も戸主が決めました。子供本人には決定権はありませんでした。現代なら結婚は結婚する当事者同士の問題でしたが、戦前は家と家が行うものでした。

 その戸主の中の戸主、それが天皇でした。教育勅語に則り、子供や妻が戸主に従うように、日本人全体は天皇に従わなければいけませんでした。天皇が国民を支配するための道徳でした。戦前の主権者は天皇でした。

 憲法で法の下の平等が認められた戦後の日本と違い(大日本帝国憲法に平等権はありませんでした)、戦前の日本は階級社会でした。同じ日本人同士に格差を設け、支配者である天皇に従わせようというのが、戦前の家族制度である戸主制度であり、その秩序を守らせるための道徳が教育勅語なのです。

 戦前の日本人が「私は天皇陛下の赤子(せきし。純真な子供)です」という時は、天皇を戸主にする拡大家族の一員という意味でした。

 昭和天皇への教育勅語の進講の草稿をまとめた「教育勅語」(杉浦重剛)にも、日本が天皇を君主とした一大家族制であることや、天皇が民を赤子とする温情を示すことなどが記述されています。

 また、教育勅語は戦争にも利用されました。教育勅語には、このよう文言があります。

”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ”

 危機が起これば公(おおやけ)のために身をささげ、皇室の運命を助けるべし、という訓示です。

 前述の進講をまとめた「教育勅語」には、鎌倉時代の元寇にあたって、執権の北条時宗を中心に挙国一致で当たったことや、楠木正成が後醍醐天皇に忠節を尽くして最後まで戦ったことが触れられています。

 戦時中、日本兵たちが「靖国で会おう」(戦死すると靖国神社に神として祀られた)と声を掛け合ったり、命令に従って特攻しました。そのような滅私奉公の背景には、(こればっかりというわけではありませんが)教育勅語による道徳教育がありました。

(人権思想の下)国民ひとりひとりの幸福が重視される現在の日本と違い、戦前の日本で重視されたのは、国体(天皇を中心とした秩序)でした。国民は国体のために犠牲にならなければならなかったのです。この国体の中には、(天皇を支えるという名目で、実際には政務をとらなかった天皇から権限を授かった)特権階級である政治家や軍人や官僚やそれと結託した財界人などがいました。

 教育勅語のように道徳を国が説くとは素晴らしいという意見もあります。しかし、戸主に特権を認めているのだから、家族仲良くせよと国が道徳を説いても、戸主を中心にした家族関係に波風をたてるなと命じているようなものです。また、天皇が主権者なのだから、国が国民に国に尽くせと説いても、個人は国のために犠牲になれと説いていることになります。

 法に定められた国民が守らなければならない道徳なら、日本国憲法前文もそうです。憲法前文には、このような理由から憲法を定めるとあります。

”われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。”

 安倍首相は解釈改憲によって集団的自衛権の行使を認めました。これは宣戦布告することでもあります。日本政府が自分の意志によって戦争を起こせるようになったのです(それまでの個別自衛権の行使には敵国の攻撃が必要でした。日本政府の意志とは関係ありませんでした)。これは、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という憲法前文に反するでしょう(ただし、学説では前文違反を理由に国を相手取って裁判を起こせないとします。具体的な個別の条文で争えるからです)。政府に二度と戦争を起こさせない、それが日本国憲法前文です。もちろん、誰が起こさせないかというと、世の中の偉いひとではなく、国民です。

 また、憲法前文の大部分は、日本国民に課せられた道徳です。以下に引用します。 

”日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。”

 もちろん、教育勅語の背景にある時代の変化を踏まえて、教育勅語を再解釈することはできるでしょう。

 しかし、教育勅語を賛美する当の右派から、そのような声はありません。それどころか、「近代日本人の骨格」と手放しで賛美しています。そして、東日本大震災であらわになった日本人の礼儀正しさは教育勅語のおかげだと根拠もなく、教育勅語を持ち上げています。

 なぜ、根拠がないと言い切れるかというと、「リベラル派の結集軸」の記事でも触れましたが、東日本大震災では大規模な暴動が起こらなかったのに、戦前の関東大震災では朝鮮人狩りが行われ、多数の朝鮮人が殺されたからです。教育勅語によって道徳教育が行われていた戦前でこれなのだから、現在の日本人の礼儀正しさが教育勅語のおかげのはずはありません。

 実際、日本人の意識調査でも、戦後まもなくより現在の方が礼儀正しいという結果が出ています。統計数理研究所の2013年の国民性調査によれば、日本人は礼儀正しいと感じるひとが77%、勤勉だと感じるひとが77%、親切と感じるひとが71%です。一方、1958年の国民性調査でも、日本人は礼儀正しいと感じるひとは47%、勤勉と感じるひとは55%、親切と感じる人は50%でした。

 現在の日本人の礼儀正しさは現時点でのものなのです。

 戦前と社会が変わった現在、教育勅語をどうとられればいいのでしょうか。また、現代に即して、どのような再解釈ができるでしょうか。

 例えば、国のために尽くせ。国が天皇の持ち物だった戦前なら、国民は支配者である天皇に命をささげよという意味です。しかし、国民が主権者になった現代では、おかしな話です。国民が国民に尽くすのだからです。むしろ、公僕である政府が国民に尽くさねばなりません。あべこべです。有権者として政治に関わり、その自覚を持って社会に参画しましょう、ぐらいでしょう。

 もっとも「夫婦仲良く」などという道徳を国が説くため教育勅語を持ち出す必要がどこまであるのか疑問です。夫にしか離婚権がなかった戦前と違い、現在は両性に離婚権があるため、夫婦関係が破たんすれば結婚生活が続かないことは分かり切ったことだからです(全文は引用しませんが、教育勅語の内容はありきたりの道徳です)。

 ただ、いくら再解釈しても「(議会に諮らず)国が定めた道徳」「国民を分断して支配するための道徳」としての教育勅語は旧時代の遺物でしょう。現代の日本が夫婦平等・男女平等・国民主権の社会なのに対して、戦前の日本は、天皇主権・男尊女卑の社会でした。教育勅語はそんな旧時代の社会を守るための道徳なのです。

 教育勅語は軍国主義を招くから、戦後まもなく、衆参両議会決議によって排除失効が決議されました。衆議院の決議の一部を引用します。

”詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる”

   教育勅語が国体(天皇を中心とした秩序)を説いており、基本的人権を損なうという決議です

 ところが、文部科学省は教育勅語を教えてもよいと、なしくずしで解禁しました。しかし、戦後の国民主権・基本的人権の尊重を国是とする戦後の日本にとって、教育勅語は、特権階級が日本人を分断して支配する手段だったと、反面教師にするものであると押さえなければなりません。

 必要なのは、道徳教育ではなく、人権教育です。人権とは、誰もが生まれながらに持ち、侵されることのない権利です。その権利には、政治に参画する権利や、苦役を強制されない自由、教育を受ける権利、言論や出版の自由などがあります。

 政治家が民意を気にするのは、国民に参政権があって、だれに投票するのか個人の自由だからです。また、原発や安保法制に反対したり、そのためのデモができるのも、思想信条の自由、言論の自由、集会結社の自由があるからです。

 人権が認められると、個人の放逸さが野放しにされるという意見があります。権利の前にまず義務を果たせというものです。しかし、人権教育で克服できることです。なぜなら、日本国憲法は、権利の濫用や公共の福祉に反する(ひとに迷惑をかけないことです)権利の行使を認めておらず、権利は国民の不断の努力によって守らなければならないと義務付けているからです。そもそも、お互いの人権を尊重しないと、自分の人権もひとから尊重されません。
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