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モラルある社会を願う(創発を生むミーム 2016/11/01号)
 創発を生むミーム 2016/11/01号の「??」の全文記事です。
 
2016/??/01号
モラルある社会を願う

 私利私欲で動く人間を教化するために、礼儀作法を身につけるべきだという意見があります。公徳心を育もうというわけです。公徳心とは、公共のためを思う心のことです。民主主義を機能させるためには、公徳心を持つ有権者が必要であり、公徳心の養成のための手段がマナーであったり、気づかいだという主張です。

 そんなに悪くない主張ですが、公徳心の養成方法に関しては異論があります。公徳心は社会への信頼がないと身につかないでしょう。それは、社会が自分を公正に扱ってくれるから、自分も社会を信頼して参加する意欲が湧くからです。

 つまり、政治家であったり、財界人であったり、キャリア官僚であったり、社会の要職につく者が、国民を公正に扱うから社会を信頼できるのです。

 それでは、現在の日本社会で公徳心を阻害する不公正にはどんなものがあるでしょうか。例えば、安倍首相の国民をだまし討ちする政治運営でしょう。2013年の参議院通常選挙の後には、秘密保護法を制定しました。2014年の衆議院総選挙の後には、安保法を制定しました。いずれも、安倍首相が争点にしなかったことです。

 もちろん、安倍首相を責めるだけでは片手落ちです。例えば、小泉政権時代には、競争を通じて供給力を増やすための構造改革なのに、その副作用の勝ち組と負け組がでるのが良いとされ、ひとを踏みつけにする風潮を生み出しました。他人をやっつければ、自分が勝ち組に入れると思われたからです。ことに(社会にぶら下がっているはずの)弱者をやっつけるのが良いとされました。例えば、集団暴行犯の大学生たちを現職の国会議員が「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。まだ正常に近いんじゃないか」と称えました。レイプ犯が強者に思えたのでしょう。しかし、他人をやっつけても、(他人を引きずり落とすことで)相対的に自分が強くなるだけで、社会全体で見て、プラスにはならないでしょう。しかし、小泉首相(当時)は、勝ち組と負け組に分かれるのが良いと、その風潮を是認しました。

 また、20世紀の自民党政権は「民間の接待文化が官に飛び火した官官接待」「政治家と官僚が結託した利権誘導」などを生み出しました。いずれも社会の公徳心を損ないました。正直者がバカを見るというわけです。

 ハイカルチャーの役割は社会のロールモデルだと思います。そのメッセージが礼儀作法やマナーであっても、行動がそれを裏切っていたら説得力はゼロです。ハイカルチャーとは一般には純文学や芸術のことを指しますが、この記事では、公権力や公論の形成にたずさわる人々を含めます。権力者が権力を不正に使っているのに、国民がルールやマナーを進んで守ることはないでしょう。

 もちろん、政治家に権力を与えているのは有権者なのですから、安倍首相たち政治家を責めるだけでは問題は解決しないでしょう。もちろん、福島第一原発の原子力事故で政治家も官僚も東京電力も誰も責任をとっていないことを思えば、有権者の力にも限界があるでしょう。その原因は、与党も野党も原発を推進してきたため、有権者に選択肢が与えられないせいです。

 さて、こうやって政治道徳を説いていると「マキャベッリ以前じゃないか」と批判を浴びそうです。イタリア人のマキャベッリは自著の「君主論」の中で、政治道徳と権力を分けて考えることを説きました。しかし、これは君主が権力を握る方策です。マキャベッリはフィレンツェを支配する君主、ロレンツィオ・メディチに献呈するために君主論を書き上げました。

 例えば、00年代のころ、「日本の民主主義は失敗ではないか、古代ローマのような寡頭制を目指すべき」という意見がありました。みんなが自分勝手なばかりで、民主主義が機能しているないからです。しかし、アフリカには「民主選挙は一度だけ」という言葉があるそうです。建国して最初の選挙で大統領を選んだけれども、独裁政治になって何十年も続く、というわけです。だから、寡頭制政治に移行しても、民主選挙が行われなくなって、独裁制に移行するだけだったでしょう。そして、君主論が説いているのは、そんな独裁者が権力を握る方策なのです。

 民主主義では、政治家は権力を握るだけでなく、その権力を国民のために公正に行使することが求められます。つまり、信託された権力(権力とは相手の意に反することを強制させることです)や集められた税金を社会に還元しないといけないのです。そして、権力や税金を私腹を肥やすために使った権力者を、国民が更迭できる政治体制であること。これらは、一国の浮沈に関わる問題だという研究もあります。「国家はなぜ衰退するのか」( ダロン・アセモグル ジェイムズ・A・ロビンソン 著)の中で、「包括的(この記事では社会還元と言葉をおきかえています)」「収奪的」という言葉で説明されています。

 権力者は私腹を肥やすために権力を使うだけでなく、自分の権力の座を脅かす存在を蹴落とすために権力を使うこともできるのです。だから、独裁者のファミリー企業を守るために、ライバルとなる企業を妨害したり倒産させたりできるのです。ジンバブエの独裁者のモブツ大統領は、独裁者なのに宝くじで一等を当てたことがあります。もちろん、不正だと言われています。この風聞が本当なら、私腹を肥やすだけでなく、ライバル(財力を握れば力になります)の出現を阻止したと言えるでしょう。こんな社会は没落の一途をたどるでしょう(例外的に中国は共産党の一党独裁なのに高い経済成長を続け、いずれGDPでアメリカを抜くという観測もあります。中国の経済成長が今後も続くのかは私には分かりません)。

 例えば、橋下徹前大阪市長のように、政治を「きれいごとか実行力か」で二分して、実行力でなければいけないとする政治家もいます。しかし、実行力とは権力を握ることです。そして、きれいごととは、この記事で論じたように、権力や財源を国民に還元することであったり、私腹を肥やした政治家を更迭することなのです。きれいごとと実行力と両方を有権者は求めなければいけません。

 政治家が信託された権力や集められた税金を国民に還元する社会というのは理想でしょう。しかし、ただきれいごとなだけでなく、社会の繁栄にとっても大切なことなのです。そして、それは民主主義国では国民が望まないと始まらないことなのです。そして、そのような社会だから国民の公徳心が育まれるのではないでしょうか。

 最後に、道徳の乱れの原因が政治の乱れだけではないことも書き添えます。

 勝ち組をもてはやした時代には、その前段階として価値相対主義がありました。価値相対主義とは、正義のような価値は、個人の受け止め方次第、ひとによって違うという意見です。しかし、これは、最後には自己利益の追求に行きつきました。どんな道徳もケースバイケースで済ませられるなら、自己利益の追求の歯止めがなくなるからです。小泉首相が勝ち組と負け組に分かれるのが良いと説いたことは、自己利益の追求にお墨付きを与えたのです。

 それでは、勝ち組をもてはやし、弱者を踏みつけにする社会で、道徳を説くためにどんな行動をすれば良いのでしょうか。それは「困った時に力になってくれるものを大切にする」ではないでしょう。東日本大震災のような大災害のさいに自分を助けてくれるものだから、日頃から大切にできるのではないでしょう。

 もちろん、「困った時に力になってくれるものを大切にする」と言っても、良いことだけではありません。「影響力の武器」という本でも「返報性のルール」として指摘されているように、(恩返しをしない奴というレッテルを貼られると社会性を損なってしまうため)恩を受けた者が便宜を図ることを断りづらいのを利用して、恩を売るというケースがあります。個人間ではささいなことかもしれませんが、時に大事になることもあります。

 ノーベル平和賞を受賞したマララ女史の自伝「わたしはマララ」によると、7万人以上がなくなった2005年のパキスタンの大地震の被災者支援をテコに、イスラム原理主義勢力のタリバンがパキスタンで勢力を伸ばしたことが記述されています。タリバンの本拠はパキスタンの隣国のアフガニスタンにあり、9.11テロを起こしたアルカイダのリーダーの故オサマ・ビン・ラディンをかくまったため、アメリカと戦争になりました。また、タリバンはパキスタン国内でも戦争を始め、マララ女史も国内避難民としてふるさとを離れることになりました。

 だから、「影響力の武器」で指摘されているように、好意には好意で返し、承諾を引き出すための策略には好意を返さないという分別は必要でしょう。

 そして、ここでもやはり、出発点は国民の行動なのです。
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