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東京ローズ
 太平洋戦争中の東京ローズの話をご存知でしょうか。東京ローズは戦場伝説の装いをした史実です。太平洋戦争中、流ちょうな英語を操りながら、ガダルカナル島に送られるアメリカ州兵たちに、本人たちも知らない派遣先の戦場を告げる日本の女性ラジオアナウンサー、それが東京ローズです。

 東京ローズ役の女性アナウンサーは複数存在しました。戦後、放送に携わった関係者たちが、東京ローズが戦犯として裁かられるのを怖れ、口をつぐんだため、その身元も分かっていません。唯一の例外が、アイバ・戸栗・ダキノさん(記事中には戸栗イクエと誤記されています)です。ただし、国籍はアメリカです。日系アメリカ人二世なのです。



 この記事を目にするまで、東京ローズに後日談があるとは思いもよりませんでした。進んで東京ローズであることを明かした戸栗さんは、GHQによって追及され巣鴨プリズンに収監されていました。記事にあるように釈放されました。けれども、アメリカ帰国後(太平洋戦争のせいでアメリカに帰れなかったのです)、カリフォルニア州の検事によって国家反逆罪で有罪となりました。禁固十年に罰金一万ドル、アメリカ国籍はく奪の罰が与えれます。    1977年フォード大統領によって恩赦を受けアメリカ国籍を回復しました。2006年、「困難な時も米国籍を捨てようとしなかった“愛国的市民”」として退役軍人会に表彰されました。同年、90歳で死去されました。
author:taiga, category:1950年代の日本, 01:12
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核実験
  当時の核実験による放射能汚染の記事をいくつか拾うことができました。なお、本文中の放射性単位カウントは、ブラウザで動く放射線・放射能の単位換算ツール(簡易)によって、ほかの単位に換算することができます。

 
 輪島で1万9千カウントが検出されました。同じ記事には、核兵器の大気圏内実験が続けば、成層圏にまで舞い上がった放射性ストロンチウムによる放射能汚染は、人類全体の被ばく許容量を超えるだろうとしています。

 こちらは旧ソ連の水爆実験による放射能汚染を報じる記事です。輪島では2万1千カウントが観測されました。  

 ビキニ環礁近海の放射能汚染を調査した日米協力事業の記事。この記事から、海水汚染にはホットスポットが生じていること、大気汚染は帯状に伸びていることが読みとれます。SPEEDIに頼らず、同心円状に避難区域を設定した管前内閣の原子力事故対応は、非現実的であると断じることができます。
送信者 放射能
 ビキニ環礁水爆実験の放射性物質の降灰時期は、粒子に粒によって落下時期が異なりました。粒が小さいほど落下時期は遅く、そして、遠方に届きました。

 福島第一原子力発電所の原子力事故による放射性物質の拡散なら、どうなるのでしょうか。SPPDEIのデータが一部公開されたため、3月の放射性セシウムの放射能汚染について、詳しく知ることができます。福島第一原子力発電所事故の経緯と突き合せれば、大きな放射能汚染が起こった3月12日と14日には爆発事故、15日には炉心溶融、21日には再溶融の可能性があるとされています。

 核種の一覧を見れば分かりますが、ストロンチウム90はセシウム137よりずっと軽いことが分かります。つまり、ストロンチウム90の放射能汚染はセシウム137より遠方まだで届いていると考えられます。ストロンチウム90のデータは、文科省調査による福島県の放射能汚染が公開されたきりです。


author:taiga, category:1950年代の日本, 03:44
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正力松太郎とCP-5

 正力原子力委員長は、契約直前、CP-5型原子炉の契約内容の見直しを主張しました。出力を倍10MWに引き上げることが狙いでした。これは、閣議決定に基づいて策定された国の原子力政策の見直しを意味します。当時の記事には、真意不明と書かれています。

  さて、出力を倍にしてくれと注文されても、そんな原子炉の規格がない以上、応えられませんン。結局、新たに原子炉を開発することになりました。こうして導入されたのがJRR-2です。  入札の結果、AMF社が落札。国内において建造されました。20%濃縮ウランの燃料では期待された出力を出せず、90%濃縮ウランの燃料に作り直すことになりました。

 →多くの原子力の研究開発や研究者・ 技術者の育成に貢献してきたJRR-2


 さて、正力原子力委員長の真意を核兵器の製造能力の獲得に求めるのは、うがちすぎでしょうか。倍の出力を要求しても、新たに作り直すことになるのは、だれの目にも明らかです。

 保守本流はことあるごとに、アメリカには逆らえないというポーズを国内にとります。けれども、ウィキリークスの報道からは、日米の外交折衝に、対米追従の場面はどこにもありません。

 保守本流は内には対米追従のポーズをとりながら、外圧を利用。アメリカには面従腹背の姿勢をとりながら、原子力の平和利用のポーズをとりながら、本当は保守本流の都合で動いていたのではないでしょうか。

 
author:taiga, category:1950年代の日本, 03:43
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沖縄在日米軍基地
  サンフランシスコ講和条約が結ばれてから、日本全国あった米軍基地の撤退運動が各地で起こりました。そのひとつが砂川闘争です。
 
 

 砂川闘争を扱った朝日新聞の紙面が下の画像フィルです。本題の同時代の沖縄基地闘争との比較にためにとり上げました。

 日本の独立後の在日米軍基地の役割を再検討したものが、プライス勧告でした。内容は、沖縄の軍政施政を肯定するものでした。「制約なき核基地」「日本・韓国の親米政権が倒れた時のよりどころ」「極東戦略の拠点」などの役割を沖縄の米軍基地に求めました。基地の用地を確保するため、土地が強制接収されました。  

 →プライス勧告発表、島ぐるみ闘争へ

 同時代の砂川闘争が成功して、沖縄の島ぐるみ闘争が失敗した原因は、国民に主権があるのかないのかに、求めることができます。    




 沖縄の米軍の土地接収をめぐる日米政府の折衝の焦点は、米軍の土地接収を認めることと、残存主権(沖縄返還の可能性を残すこと)を取引すことでした。



 当時に鳩山一郎首相は、アメリカは代替地を用意すべきだと主張しました。その土地は、信託統治領やそのほかの島からもとめるべきだと主張しました。これらの地域は、現在のパラオ国や米領グアムが該当します。棄民政策です。

 接収と引き換えに支給された地代は生活費一か月程度でした。

author:taiga, category:1950年代の日本, 03:43
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南極探検
南極大陸の学術調査についての朝日新聞の記事をいくつかみつけることができたので、掲載します。






 さて、この時代、南極大陸の学術調査と原子力の平和利用がひとつに結ばれている記事をいくつか見つけることができました。以前、TBSのテレビドラマ「南極物語」とテレビプロパガンダを結びつけた記事を書いたことがあります。それも、一連の過去の新聞記事を読んでいたからです。


author:taiga, category:1950年代の日本, 03:43
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ビキニ環礁の水爆実験
 1954年、ビキニ環礁水爆実験によって、日本人の漁民だけなく住民も死者が出ました。記事にある225レントゲンはシーベルトに換算すると、2シーベルトを超えます。

 

ビキニ水爆実験 被曝者はいま

  ビキニ環礁で被ばくした日本の漁船は、第五福竜丸だけではありません。近海の立ち入り禁止海域外で操業中の複数の漁船が被ばくしました。記事中にある100カウントは、シーベルト換算すると、5.0μSv/hにあたります。


 また、イカの内蔵から20カウントの放射線が検出されました。これは放射性ヨウ素131に換算すると1633ベクレルにあたります。

漁船の被ばくが続いたのは、アメリカの無警告実験のせいです。
送信者 放射能
 なお、第五福竜丸は被ばくから2年後、水産大学の実習船に生まれ変わりました。

author:taiga, category:1950年代の日本, 03:42
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李承晩ライン
日本の戦後復興を支えたのは、1950年から1953年にかけての朝鮮戦争による軍需ブームであるとされました。最後の休戦監視団が1956年に引き揚げる記事を見つけることができたので、掲載します。

 敗戦後、平和国家として生まれ変わった日本が、軍需によって経済が立て直されたことを、当時の労働者がどう思っていたのか、うかがい知れる記事を拾うことができました。
 
日本の労働者が背負っている十字架だ。資本主義社会の一企業の中で兵器製造をサボることは退職を意味する。この解決は日本の政治だけでなく世界の政治が決めることだ。

 こんな労働者によって戦後復興が支えられたのなら、今の日本はやはり、間違っていなかったと言えます。この当時、中学生だった松山猛が朝鮮学校の生徒から教えてもらった歌がありました。朝鮮語のその歌は松山猛によって訳詩され、発表されました。ザ・フォーク・クルセダーズのイムジン河です。
 
 中学生時代の松山猛は、この曲を北朝鮮の民謡だと勘違いしていました。この歌は、北朝鮮の詩人、朴世永によって作詞されました。原詩は北朝鮮のプロパガンダのためだったのです。ところがには「誰が祖国を二つに分けたのだろう」とあります。朝鮮戦争を始めたのは金日成です。朝鮮総連が抗議したことも無理はありません。朝鮮総連は、北朝鮮の歌であることの明記、原曲の作曲詞者のクレジットの表記、原詩を忠実に訳詩することを要求しました。けれども、東芝音楽工業がイムジン河のレコードの発売中止を決めた理由は、朝鮮総連からの抗議だけが理由ではありませんでした。韓国からの圧力がありました。韓国が圧力をかけた理由は、初代大統領李承晩から続く反日プロパガンダに求めることができます。朝鮮戦争中の1952年、李承晩ラインを設定して、竹島周辺の漁業権を主張しました。  

 現在の韓国も北朝鮮との軍事緊張を抱えていますが、竹島防衛のための軍事費支出が優先されています。建国間もない時期から、韓国はそんな国なのです。  

 →韓国政府、鬱陵島にイージス艦が停泊できる海軍基地を建設。独島(竹島)防衛のためと明言


 李承晩ラインを越えて操業した日本の漁民は、韓国によって抑留されました。

 抑留された漁民の開放をめぐり、国内でも世論が割れました。自衛隊の出動を求める声もありましたが、自衛隊を出動させれば、韓国民の目を外に移したい李承晩大統領の思うツボにはまるという論説もありました。


 最終的には交渉によって解決されることになりました。

 犯罪者として日本の刑務所に拘留されていた韓国人の犯罪者と釜山に抑留されている日本人の漁民との交換です。

 解放された韓国人は韓国に送還されることになりました。わざわざ記事に再確認とあるのは、送還を拒んだのは韓国政府だからです。李承晩の統治する韓国政府とは、こんな国だったのです。 

   
author:taiga, category:1950年代の日本, 03:42
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汚職
 汚職や不正についての記事をいくつか見つけたので紹介します。

 会計検査院による防衛庁の不正支出について報告されました。およそ10億円と見積もられる不正支出も問題ですが、予算総額およそ600億円ほどの防衛庁の予算に200億円ほどの繰越金が発生しています。消化能力のない予算を組んだせいだと会計検査院は報告しました。

 農水省の官僚による交付金の水増し詐欺事件がありました。事件を起こした事務官が書類を改ざんしたため、不正の全貌がはっきりしないと記事にはあります。

 ビキニ環礁の水爆実験によって、日本の漁船が放射能汚染され死者も出ました。この被害に対して支払われた補償金から国会議員や官僚にお金がばらまかれた噂がありました。衆議院議院運営委員会の証人喚問によると、ワイシャツやつくだ煮程度の付け届けに40万円が支出されました。当時との初任給の差から価値を換算すると、400万円程度になります。


 相次ぐ官僚の不正について開かれた座談会。文中からは、政治家が利権のための支出を官僚に命じていることが、不正の温床であるように読み取れます。けれども、チェック・システムにも問題があり、お金をくすねて会計検査院の役人に官官接待が行われていました。なお、戦前の高級官僚の給料はゴルフを自腹でしていたとありますが、無理もありません。当時の次官は、明治政府の位階制度によると、男爵に相当する役職だからです。サラリーマンではありません。
author:taiga, category:1950年代の日本, 03:42
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やくざ
  正しいやくざはかたぎに迷惑をかけないという意見があります。50年代の朝日新聞を調べていて、その誤りに気付きました。戦後間もなくは、やくざが銀座でおいはぎをやっていたのです。







 また、やくざによって女性が性奴隷にされ、飯場の売春宿の監禁された事件も実在しました。同じく、やくざ同士の抗争によって、町が無法地帯になる事件も実在しました。


     それから、任侠映画のように理想化されたやくざ像を打ち砕く記事も見つけました。自由なき苦の世界。

 やくざの取り締まりのために設けられたのが銀座署の愚連隊取締本部です。やくざの取り締まりとともに懸念されたのが、企業舎弟の出現です。半世紀前の銀座署愚連隊取締本部にあたるのが、現在の丸の内署芸能特捜班です。

author:taiga, category:1950年代の日本, 03:42
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分数のできない小学生

 分数のできない大学生の学力不足が問題になったことがあります。原因は、小学校時代の理解不足です。50年代は分数のできない小学生が問題になっていました。原因は、教育カリキュラムにはいっていなかったからです。
author:taiga, category:1950年代の日本, 03:42
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