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ステレオタイプな財政政策(創発を生むミーム 2020/04/01号)
 創発を生むミーム 2020/04/01号の「ステレオタイプな財政政策」の全文記事です。
 
2019/04/01号
ステレオタイプな財政政策

 バブル崩壊以来、日本は30年にも渡るデフレ不況にあります。そのため、国内市場は低迷を続け、実質賃金(物価変動を調整して実際に商品やサービスの購入に使える賃金)は下がり続け、毎年のようにパイが減り続ける社会です。実質賃金はバブル崩壊の1996年から2016年の間におよそ10%の減少でした。ひるがえって1964年の東京オリンピックの時代の日本は高度経済成長期にあり、毎年、10%近く、GDP(国内総生産)が上昇を続けました。今は貧しくても、来年は今より豊かになっていることが、生活実感として感じ取れた時代でした。

 さて、この失われた30年の原因はなんなのでしょうか。なぜ、デフレ不況が30年も終わらないのでしょうか。バブルが弾けたせいでしょうか。2008年の世界不況の震源地であったアメリカは数年で経済を立て直し、株価も不動産バブルの破裂時よりも上ったというのにです。

 デフレ不況の原因は、一国の供給量と不釣り合いなほど、一国の需要量が少ないせいです。不況にある(仕事がなく定収入がない)ため、消費者は物やサービスを購入しようという意欲がなくなり需要が減ります。そのため、供給力が余り、物やサービスの値段が低下を続けます。それでも売れません。安くても買う気のないものを消費者は買わないからです(経済学では流動性選好の破れといいます)。

 これは高度経済成長時代の日本とは真逆です。当時の日本は一国で見た需要量より、供給量が少ない時代でした。そのため、作れば作るほど物が売れた時代でした。そのため、大量生産によって、国民の需要を満たせば、企業は儲かるし、一国のGDPも上昇する時代でした。

 それなら、処方箋ははっきりします。国の財政を出動させて、一国の需要量を増やせばよいのです。そのための方策は二つあります。公共事業と国民への給付です。

 公共事業による需要創造は古くは1929年の世界恐慌のころのアメリカのテネシー川流域開発事業があります。ただし、現在の日本は少子高齢化による人手不足のため、建設業者が仕事をさばけないという状況です。これは公共事業の現場でも同じです。そのため、公共事業を増やして、景気を立て直すのは難しい状況です。

 そのため、国民への給付の方が効果的でしょう。例えば、減税や現金給付です。

 さて、処方箋が明確なのに、政府はなぜそのような行動がとれないのでしょうか。

 ここではざっくり二つ挙げます。まず、財政健全化(プライマリー・バランス)目標の達成のため。そして、国民が望んでいないからです。

 基礎的財政収支(プライマリー・バランス、税収だけで借金返済を除くその年必要とされる支出を賄うこと)黒字化目標は歴代の政権および与党が掲げているものです。それは国民への選挙公約です。なぜ政府がそれに縛られるかというと、国民に約束したからです。

 それでは、なぜ国民は基礎的財政収支黒字化目標を支持し、需要創造政策に反対するのでしょうか。

 それは、国民が終わりないデフレ不況という恐怖心にとらわれて、生活の最後のよりどころとして国の社会保障に期待しており、確実な社会保障給付のために、財政赤字では社会保障政策が打ち切られるから、増税しようという意識があるからです。

 さて、国の収入を増やすには二つの方策があります。まず、増税、続いて経済成長による自然増収です。

 それではなぜ、自然増収ではなく増税なのでしょうか。

 それは、自然増収の前提である経済成長の見込みがないと国民が見切りをつけいているからです。

 つまり、景気の下支えのために公共事業を増やしたけれども役に立たなかったという観念であったり、経済成長のために構造改革にまい進したけれども、経済は成長しなかったという観念です。

 つまり、諦めの境地です。

 そのため、こんな俗説が流れています。

 経済成長を望んだからバブルが起きた、経済成長を期待せず、経済の縮小安定を図るべき。あるいは、日本はもう高度経済成長期のようにはなれない低成長期の国。デフレ不況の中で清貧に生きることを考えるべき、などです。

 しかし、諦めの境地に逃げるはまだ早いでしょう。そもそも、「仕事を増やそう」の記事にも書いたように、経済成長は生産して取引して消費するサイクルから生まれるものです。

 日本のデフレ不況の原因は、消費が減り取引が成立しないことにあるとはっきりしています。それなら、消費を増やし取引を活性化すれば、日本の経済は好転するでしょう。

 過去の経済政策が上手くいかなった原因もはっきります。

 公共事業によって景気を下支えできなかった理由は、「諦観の消費税増税論」の記事にも書いたように、公共事業が増えているという一般通念に反して、減り続けたせいです。1998年の14.9兆円から2011年には5.3兆円まで減りました。これでは景気の下支えはできません。

 また、構造改革は最初から、供給量を増やすための政策だと竹中平蔵内閣府特命担当大臣(当時)が演説で述べています。需要量を増やす政策ではありません。供給力が余るデフレ不況に供給量を増やす政策をとっても、焼け石に水どころが、外科手術で患者の体をメスで突き回すようなものです(そもそも構造改革は、80年代のサッチャリズムやレーガノミクスで取られた政策です。目的は、需要より供給が少ないと起こるインフレを伴った不況、スタグフレーションの解消のために供給力を増やすことでした)。

 小泉内閣時代の日本の経済成長はアメリカの不動産バブルによってアメリカの需要が増え、そのため、アメリカは中国から輸入を増やし、その中国は日本から部品を輸入して組み立てて、アメリカに輸出するものでした。

 その一方、日本は内需市場は低迷した外需頼みの経済成長でした。また、構造改革によって人件費切り下げや円安による輸入品の値上がりによって、実質賃金は減り続ける実感なき経済成長でした。

 また、80年代に日本で不動産バブルが起こった理由もはっきりしています。当時の日本はアメリカとのプラザ合意によって円高誘導政策を取っていました。ところが、予想より円高が進みすぎたため、円安政策を取りました。つまり、金融緩和です。金融緩和によって円安に進むことは現在の安倍ノミクスでもご存知のとおりです。さて、その金融緩和によって発生したのが、不動産バブルです。

 また、高度経済成長期の日本のように経済が急成長しないのも理由があります。そもそも、高度経済成長期が特殊なのです。当時の日本は多子多産社会でした。衛生が悪く子供のうちに死んでしまうから、大目に子供を産んでおこうという社会です。ところが、衛生環境が向上したため、子供が死ななくなりました。こうしてたくさんの子供が大人になりました。団塊の世代です。

 この団塊の世代が働き手となってたくさんの供給を産み、需要を満たしたから、高度経済成長期の日本はGDPが急上昇しました。これは日本だけの特殊なケースではなく、人口ボーナスと呼ばれる、ひとつの国に一回きりの特殊なボーナスです。今の中国の経済成長も人口ボーナスのおかげでもあります。

 経済の縮小安定を図るのも、清貧に生きるのも字面だけをみると、浮利を追わないようでかっこ良いですね。しかし、生活苦という言葉があります。

「ポスト『アベノミクス』の経済学」(金子勝,松尾匡)という本で著者の一人の松尾匡立命館大学教授が説明していることですが、経済不況と自殺率は相関関係にあります。つまり、経済が悪くなるほど、自殺者が増えているのです。個人の生き方として清貧に生きるのは個人の勝手ですし、清貧な生き方を主張するのも自由ですが、経済不況は人を殺します。

 しかし、経済が年間で2%づつ増えれば、35年で日本のGDPは倍になります。単純に計算して、租税収入も倍です。つまり、財政健全化政策をしなくても、日本の財政は黒字が達成されます(本当にざっくりした計算ですよ)。

 もちろん、そうやって経済成長を追っても国民が幸福なるとは限りません。「経済成長って、本当に必要なの?」( ジョン デ グラーフ ,デイヴィッド K バトカー)に書いてあるように、GDPが増えたからと言って、国民が幸福になるかどうかは一概には言えません。離婚による調停に弁護士を頼んだりや公害による医療費も増加もGDP統計上は、経済の成長とカウントされるからです。

 だから、国民の生活が幸福になるように賢く使わなければなりません。

 そこで、今、自民党内でもとりざたされ、れいわ新撰組が選挙公約にも掲げた消費税0%を例に挙げたいと思います。消費税は逆進性のある税金です。低所得者ほど負担の重い税金です。それが廃止されたら、もちろん、高所得者も恩恵を受けますが、低所得者ほど重い負担が解消されます。その一方で、実質賃金が上昇するため、消費が増えるでしょう。これは今の日本に必要なことです。

 もちろん、消費税は安定財源なのに、という意見もあるでしょう。つまり、不景気でも税収が減らない税金だから、景気が落ち込む不況期に社会保障の財源になるという主張です。

 しかし、税の目的は財源の調達だけでなく、経済の安定にもあります。

 今のようなデフレ不況下では消費税を減税廃止して需要を増やし、景気が過熱して需要を満たすほど供給がないスタグフレーションの時には、増税して景気を冷ませばよいでしょう。

 赤字国債の発行は現在の国民が豊かになるために将来の国民に借金を付け回す悪政という意見もあります。

 しかし、消費を増やして取り引きを成立させ生産するというサイクルが景気を成長せないため、デフレ不況が30年も続きました。これからもそうでしょう。デフレ不況下での緊縮財政は不況を将来の世代に残す悪政でしょう。

 逆に将来に景気が過熱して増税して国債を返済するのは、スタグフレーションを防ぐための善政です。決して将来世代に負担を付け回しているのではありません。

 そもそも、新型コロナウィルス拡散による景気後退への対策でも、基礎的財政収支黒字化目標がネッネックとなって政府は必要な政策を取れません。

 和牛産業や漁業振興のためのお肉券やお魚券について、(良し悪しはさておいて)江藤拓農水大臣は、「財政規律上、許される範囲でやらなければならない」とコメントしています。財政再建のために、景気対策を打たないのです。

 もちろん、放漫財政が止められなくなるという批判もありますが、デフレ不況下で国民の過半数が増税と財政再建を支持する国民性(2019年の消費税増税には国民の過半数が反対しましたが、数年前までは過半数が消費税増税に賛成でした)でその危険がどれだけあるのでしょうか。そもそも日本人の国民性は勤労によってお金を稼ぎ、倹約によって貯めこむことです。

「お金を使う人お金に使われる人 」(山本 一力)で紹介されている例です。子供の職業体験テーマパークのキッザニアはメキシコ発祥です。ところが日本の子供とメキシコ子どもは行動が真逆です。キッザニアでは来館した子供にキッゾというクーポンを渡して、そのクーポンを使って館内でサービスを受けられます。逆にキッザニアの中で働くことでキッゾを稼ぐことができます。ところが、メキシコ人の子供は一目散に遊んで手持ちのキッゾを使い果たしてから働き口を探します。一方、日本の子供はまず最初に働き始め、手持ちのキッゾのなかなか使わず貯めこむそうです。

 だから、デフレ不況下で構造改革や財政再建を支持するのも、国民性の問題でもあるでしょう。でもこれって、現実を見ないステレオタイプ(先入観による偏った物の見方)な財政政策ではないでしょうか。
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原子力ムラの打ち出の小槌(創発を生むミーム 2020/03/01号)
 創発を生むミーム 2020/03/01号の「原子力ムラの打ち出の小槌」の全文記事です。
 
2019/03/01号
原子力ムラの打ち出の小槌

 福島第一原発の原子力事故に伴う賠償が、また、原発の廃炉のための費用が国民につけ回されるのはご存知でしょうか。

 日本のすべての消費者や会社が利用する送電サービス(発電所から家庭やオフィスまで電力を送ること)から徴収して、賠償金ならびに廃炉の費用をまかなうからです。

 これまで、日本では大手電力会社が発電所も送電設備も保有していました。だから、送電サービスも電力サービスも含めて、消費者は大手電力会社と契約を交わして、月々の料金を支払っていました。

 そして全国の大手電力会社が共同で負担する原子力事故の賠償金は、総括原価方式によって電気料金に転嫁されていました。国民全体に転嫁されていました。

 ところが、今年4月から、その制度が変わります。日本に10ある大手電力会社を分割して、発電所を運用する電力会社と、その送電設備を保守運用する送電会社一社に生まれ変わります。発送電分離です。

 また、電力自由化に伴い総括原価方式も廃止され、事故の賠償金は、新電力と契約する消費者は負担せずによくなりました。

 さて、この送電会社は、日本の送電サービスを地域で独占的に営業します。その送電会社が、廃炉の費用を負担するのです。もちろん、料金(託送料)に転嫁されます。最終的に負担するのは国民です。逃れようがありません。

 電力会社と契約を交わしたことがあっても、送電会社のことを何も知らないし、契約を交わしたわけでもないので、読者はピンとこないかもしれません。

 送電会社が全国の送電サービスを独占するといっても、消費者と契約を交わすわけではありません。当然、顔の見える存在ではありません。

 消費者は電力会社と契約を結んで電気料金を支払い、電力会社はそこから送電会社に送電料金を支払います。そして、送電会社はそこから、賠償金と廃炉の費用を支払います。原発事業者から見れば、取りはぐれのない補助金です。

 これは、原子力事故を起こした東京電力に「だけ」補助金を出すような制度です。また、それだけでなく、この政策は、大手電力会社と日本原燃(原発を運用する売電会社)に「だけ」補助金を出すようなものです。過去に積み立て不足だった原子力事故の賠償金のための費用、総額2.4兆円を託送料から転嫁するからです。また、廃炉の費用を補助してもらえるからです。

 かつての日本なら、大手電力会社「だけ」で日本の電力会社の全てでした。

 これまでの日本の電力会社は地域独占でした。国から免許を受けた大手電力会社だけが、電力事業を営めました。

 ところが、電力自由化が始まり、事業者が自由に電力事業に参入できるようになりました。

 そんな新電力会社でも、送電会社と契約を交わして、送電サービスの費用を支払います(だから国民は廃炉の費用や賠償金の負担から逃れられません)。

 名目は「廃炉円滑化負担金」ですが、計画より早く廃炉される原発の廃炉の費用を捻出するためです。以前は総括原価方式で電気料金に転嫁され、大手電力会社の経営が守られいました。それが、総括原価方式が2020年から廃止されるため、送電会社の託送料に転嫁されることになりました。

 また、福島第一原発の原子力事故に伴う賠償金を大手電力会社は一般負担金の名目で、2015年度までに累計で1.3兆円負担しました。現在の賠償金積み立ての制度ができるまでの1966年度から2010年度までこのペースで大手電力会社が積み立てすると、3.8兆円になり、一般負担金1.3兆円を引いて、2.4兆円が積み立て不足として、国民に転嫁されます。過去分と呼ばれます。過去分とは、原子力事故への備えが過去は過小評価されていて電気料金が安かったものを、改めて回収するというものです。

 経済産業省は電気事業法18条を根拠に、ユニバーサルサービス料のために、送電料に転嫁できるとします。しかし、一般社団法人グリーン・市民電力の表明では、条文にユニバーサルサービスに触れた文言はなく、根拠となる法律がないと指摘されています。

一般社団法人グリーン・市民電力 陳情書
https://www.greencoop.or.jp/gcwp/wp-content/uploads/2019/02/19.01.10_keizaisangyosho_chinjosho.pdf

電気事業法
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/18620140618072.htm

 また、「過去分」の回収については、蓮舫参議院議員の国会質問によると、民法による債権の消滅、商法に定める商慣習違反とあります。


民法第百七十三条は「次に掲げる債権は、二年間行使しないときは、消滅する。」とし、同条第一号で「生産者、卸売商人又は小売商人が売却した産物又は商品の代価に係る債権」を掲げていることから、一般負担金「過去分」に関する「債権」はすでに消滅しており、過去に原子力発電の電力で受益をしていた電力消費者から一般負担金「過去分」を回収することには法的根拠がない。

(中略)

一般負担金「過去分」は「原発のコスト(発電原価)」であり、原発の電気とは無関係な新電力契約者に対して「託送原価」として課すのは、商慣習に従うべきと定めた商法第一条違反である。 ”

福島原発事故関連費および原発廃炉時の未償却資産の託送料金による回収に関する質問主意書
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/195/syuh/s195042.htm

 この送電料(正式には託送料金)は電線の維持のための料金なのに、原子力ムラの便利な打ち出の小槌にされたのです。

 そして、そのお金から廃炉の費用を名目に補助金を受け取れるのは、原発事業者だです。つまり、(原発のない沖縄電力を除く)大手電力会社社と日本原燃だけです。

 これは、市場の自由を損ねます。

 例えば、再生可能エネルギーを利用した電力会社と原発に依存した大手電力会社が価格競争をしたとします。当然、補助金を受け取れる大手電力会社の方が有利になります。

 また、原発には、言うまでもないことですが、福島第一原子力発電所の原子力事故のような放射能汚染のリスクがあります。公害産業です。このような産業に補助金を出すことは、原子力事故を助長する行為です。

 経済学に負の外部性という概念があります。自動車の排ガス、温室効果ガスによる地球温暖化など、事業活動によって社会には大きな損失を生むものでも、事業者はその費用を負担しないものを指します。

 事業者にとっては、やり得なようなものです。もし正直で公正な事業者がいて、負の外部性を進んで負担しようとしたら、倒産してしまいます。不正直な事業者との競争に負けてしまうからです。だから、事業者は汚染を防止せず、垂れ流した方が利益になります。これを外部不経済と呼びます。

 自由競争市場では、外部不経済は防げません。防止のためには、「政府が規制する」「環境税をかける」などの手法があります。

 ところが、日本政府の方針はこの逆で、原発産業に補助金を出す方針です。これでは、原子力事故に補助金を出すようなものです。自動車や家電でも、エコなものに補助金が出るのですけどね。

 さて、大きな話をしておいてなんですが、少し小さな話も。原発反対派はよく、原発推進派から「電力を原発に頼っているのに、原発反対なんて」と非難されます。だから、自分が原発反対派だから、再生可能エネルギーを利用した電力会社と契約を交わす人がいるのです。

 ところが、送電会社に廃炉の費用を負担させることは、そんな人に原発推進の費用を負担させるようなものです。

 もう少し大きな話をすれば、送電会社に廃炉の費用を負担させるのは、原発反対派に費用を転嫁して、原発推進派に補助金を出すようなものです。「原発推進派だって費用を負担しているじゃないか」と怒る原発推進派の読者もいるかもしれませんが、原発推進派だけで廃炉の費用を負担できるなら、原発反対派に転嫁しないでください。原発推進派がよりどころとする根拠の一つはコストの安さじゃなかったんですか。

 そもそも、原発推進に補助金を出すのは、民意に反します。

 日本の有権者の過半数は原発の再稼働に反対です。また、長期的に見ても、10年から20年のスパンで原発を全廃しようという意見が圧倒的です。

 もちろん、与党自民党から見れば、なにしろ原発推進を党是としているのですから、(自民党の論理では)原発推進の補助金を出すのは、おかしくありません。

 自民党は原発の発電比率を全体の30%で維持する方針です。その数字を達成するためには、日本にあるすべての原発を再稼働させなければなりません。

 東日本大震災前と何も変わりません。もちろん、国民の負担で廃炉と賠償の費用の補助金を出すのだから、原子力ムラにはより甘く、です(なお、賠償金や早期廃炉の費用を総括原価方式でまかなう制度は福島第一原発の原子力事故後に制定されました。)。

 また、「賠償金と廃炉の費用を国民が負担する」といっても、「国家予算から補助金を出す」と「送電会社が払って負担を料金に転嫁する」のとでは大きな違いがあります。

 前者は国会から毎年、監督されるからです。一方、後者にはそんなものはありません。フリーパスです。

 予算は原則として、その年度の予算は必ずその年度の議会の承認を得なければなりません(予算単年度主義です)。2020年度の予算なら、20年の1月に開催される通常国会で政府の予算案が承認されなければなりません。行政の計画が複数年に渡っているからといって、最初の年に一括して、予算が承認されるものではありません(例外はありますが)。

 もちろん、国会に政府を監督させるためです。

 ところが、送電会社が廃炉の費用を負担するのは、国家予算ではありません。当然、国会の承認も不要です。従って、国家予算のように毎年、国会から承認を受ける必要もありません。いうなれば、政府の第二の財布です。

 原発推進派からすれば、毎年、安定した補助金を原子力ムラに出せるわけです。

 さて、ここまでして原発のために国民が負担する大義が果たしてあるのでしょうか。

 原発推進派は、日本のエネルギーの多様化のためにと主張します。

 例えば、テレビコマーシャルにもなったのですが、電力事業者協会は、日本のエネルギー自給率が8%(2017年のデータ)だから、原発が必要だと主張します。

 ところが、日本の電力のおよそ17.4%はすでに再生可能エネルギーによる発電でまかなわれています(2018年のデータ)。

2018年(暦年)の国内の自然エネルギー電力の割合(速報)
https://www.isep.or.jp/archives/library/11784

 8%と17.4%でデータが違うじゃないかと思うかもしれませんが、これは統計の種類の違いです。

 前者は、「エネルギー自給率」です。これは発電に限らず、自動車やボイラーなどの動力など、国内の暮らしや産業に使われる一次エネルギー(一次エネルギーとは自然界から得られたエネルギーのこと)のすべての内、国内で自給できるエネルギーの比率です。

 一方、後者は「電源別発電電力量構成比」です。国内の電力の発電方法の比率のことです。

 さて、原発でまかなえるエネルギーは電力だけです。原子力自動車があるわけでもなければ、原子力ボイラーや原子力動力があるわけでもありません(原子力船は日本では運用されていません。また、海外でも軍事用で民間では使われていません)。

 それならば、原子力が日本に貢献できる成果は、電源構成で見た方が、しっくりくるでしょう。なお、日本の場合、一次エネルギーの内、電力に使われるのは2016年のデータで45%です。

一次エネルギーに占める電力の比率 (電力化率)
https://www.ene100.jp/zumen/1-2-9

 もちろん、再生可能エネルギーの使い道も電力に限られます。

 だから、原発と再生可能エネルギーを比較するなら、電源別発電力の構成比で見た方がわかりやすいでしょう。

 さて、FIT(太陽光発電の固定価格買取制度)も終了しました。再生可能エネルギーの発電コストも石炭やガスといった火力発電を下回るようになりました。エコで安くて安全。国民の負担で補助金を出すなら、再生可能エネルギーの方が、将来性があり、国民の暮らしを豊かにし、国際的な競争力になるのではないでしょうか。
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黒川さんに限っては借金の棒引きを認めます
 検察庁法改正案が問題になっています。

 政府の法律解釈の変更を受けて(されている)今年1月31日の閣議決定によって、黒川氏の勤務が63歳から半年延長され、その間に検事総長に就任して、検察庁法改正が施行される2022年に黒川氏がさらに定年が3年の伸びるシナリオがささやかれています。

 このシナリオに沿った定年の延長が可能であることは法務省も認めています。


「黒川氏は68歳(2025年)まで検事総長として君臨できる」法務省が公式見解
https://buzzap.jp/news/20200512-kensatsucho-kurokawa-till-2025/


 この記事では検察庁法改正案ではなく、その前にあった法律解釈の変更を取り挙げます。

 法律用語では、法律は一般法と特別法に分けられます。一般法は広い範囲をざっくり扱った法律のこと。特別法は一般法で扱う範囲の一局面だけを取り挙げた法律です。

 だから、同じ法律でも、見方によって一般法になることも特別法になることもありえます。民法が一般法で商法が特別法、商法が一般法で消費者契約法が特別法にもなりえます。

 なぜこんな複雑な用語があるかというと、特別法は一般法に優先されるという原則があるからです。

 例えば、民法は民間同士の問題を扱った法律です。例えば、権利を侵害されても被害者が自分で救済の訴えを起こさないと裁判所は助けないという原則や、約束を結んだ相手に誠実でないといけない、権利の濫用は認められないなどです。

 そして、民法に対する特別法である商法は、商取引に特化した法律です。民法が想定するケースと比べて、迅速な商契約の締結や商契約の安定性、また、商売人の日常の仕事がそうであるように、反復かつ継続的な活動が対象になります。

「特別法は一般法に優先されるにはどんなケースがあるのか、民法と民法に対する特別法である手形法で解説します。

 民法で扱われる債務は、破産宣告によって、裁判所から債務の免責を認めてもらうことが可能です。借金がチャラになるのです。

 一方、手形法で扱う手形(将来、お金を払うことを約束したもの)は、破産宣告を受けてもチャラになりません。手形法は民法より優先されるからです。なぜ手形がチャラにならないのかというと、商取引の安定のためです。

 それではなぜ「特別法は一般法に優先される」という原則があるのかというと、特別法はより細かい対象を扱っているからです。

 さて、本題に戻って、法律解釈の変更による黒川検事長の勤務延長について。参考資料は以下です。


国家公務員の定年制度等の概要
https://www.jinji.go.jp/kenkyukai/koureikikenkyukai/h19_01/shiryou/h19_01_shiryou08.pdf


 これまで、検察官の定年は、検察庁法によって、検事総長は65歳、それ以外の検事は63歳とされました。

 この検察庁法は国家公務員法より優先される特別法です。

 国家公務員法では、定年は60歳とされ、また、「職務の特殊性又は職務遂行上の特別の事情が認められる場合に」場合に、最長3年間の勤務延長が認められます。

 でも残念、政府が黒川検事長の定年を延長したくても、国家公務員法は一般法なので、特別法である検察庁法の方が優先されます 。

 ところが、政府が行った「口頭」「決裁書類もない」法律解釈の変更では、検察庁法より国家公務員法が優先されるとされたため、黒川検事長の勤務延長が可能となりました。

 一般法や特別法という概念は、法学者の学説や裁判所が下した判決の集大成のようなもので、政府に「特別法は一般法に優先される」という原則を課したルールは、直接はありません。

 だから、安倍首相が黒川検事長の勤務延長を認めること(黒川検事長に限って手形のチャラを認めるようなもの)を直接、禁止する法律は日本にはありません。

 ただ、日本国憲法には次のような文句があります。


第七十三条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。



 常識的な法律解釈では、「特別法は一般法に優先される」ため、黒川検事長の勤務延長を可能にした政府の法律解釈の変更は、不誠実であり、違憲にあたるでしょう。

 ただし、政府に違憲と認めさせるためには、国民が最高裁判所から違憲判決を勝ち取らなければなりません。
author:taiga, category:-, 19:17
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憧れるチームを作る(創発を生むミーム 2020/02/01号)
 創発を生むミーム 2020/02/01号の「憧れるチームを作る」の全文記事です。
 
2019/02/01号
憧れるチームを作る

 2019年にラグビーW杯で初のベスト8に進出して大躍進を遂げたのがラグビー日本代表です。

 ラグビー日本代表と共に、チームを支えたスローガンの「ワンチーム」も広く口にされるようになりました。

 しかし、「ワンチーム」の合言葉がチームを支えた背景には、選手たちにあるコンセンサスがあったためでした。

 それが、「憧れる代表になる」ということでした。2015年にラグビー日本代表が南アフリカを破る大金星を挙げるまでは、ラグビー代表は国内では話題にならない存在でした。それどころか、国内のラグビー選手までが、代表入りしても無報酬のため、代表入りを辞退することがあったぐらいです。

 そこで、2011年のエディジャパンの発足時に代表のキャプテンになった廣瀬俊朗やメンバーたちの間で話し合いが持たれました。


「ぼくたちは、憧れの存在になるために勝ちたいと考えました。日本代表に対する愛着が選手だけでなく、ファンの人たちも含めて低かった気がしていました。ファンの方々も、記憶に残る試合といえば、いついつの早明戦とか、神戸製鋼V7の話題になる。まずは代表を憧れの存在にしなければ、と」


ラグビー日本代表は「日当1万円」で十分なのか
https://president.jp/articles/-/30390?page=2

「ワンチーム」のスローガンの背後には、「憧れの存在になる」というコンセンサスがあったのです。

 これは、ただの言葉尻の問題なのでしょうか。

 孫子も戦争に勝つ理由の一つとして、上下の心が一つになることを挙げています。人間は言葉で生きる生物なので(いわゆるソフト・パワーです)、一致団結できる共有されたビジョンは、言葉だけでなく、人の心も、そして行動も変えることができます。

 さて、少し視野をひろげるために、「ワンチーム」以外に一致団結するための他の言葉を探してみましょう。

 他の言葉を選ぶなら、「ワンチーム」という言葉を拡大して、組織が果たすべき達成された状態を言葉で表現すべきでしょう。

 これは、湾岸戦争(1992年にイラクがクウェート全土を占領して米軍を中心に多国籍軍と戦った戦争)の時に米軍の後方司令部の司令官の回想録、「山・動く」(W.G. パゴニス)に書かれていることです。

 イラクのクウェート侵攻はアメリカに事前に察知できない出し抜けのものでした。そのため、急ピッチで米軍が隣国のサウジアラビアに派遣されたのですが、サウジアラビア側に受け入れ態勢がありませんでした。

 そこで、この司令官が当初、サウジアラビアから米軍に提供される物資を調整するコンサルタント役として派遣されます(この司令官は、ヨーロッパで旧ソ連と戦争になった時に、米軍をヨーロッパに派遣する演習に参加したことがあり、大軍の急派について詳しかったからです)。

 この司令官が降り立ったサウジアラビアの空港の米軍の受け入れ業務が急な事態に崩壊して、混乱の極みにありました。そこで、そこに居残って米軍の受け入れ態勢を整えるのですが、連れてきた3名の部下がいるだけでした。サウジアラビアが気を利かせて用意したトラックの運転手たちの中から一番大男で目立っている人物を選んで「トラック中隊の指揮官に任命する」と言ってトラック運転手たちを組織させ(いわゆるストリートワイズです。そんな部隊が存在したわけではありませんでした)、同じくサウジアラビアが用意した無人となっていたサウジアラビア軍の兵舎に飛行機で続々と到着した米兵たちを輸送させました。

 この司令官を中心としたスタッフがそのまま後方司令部になるのですが、開戦前のビジョンは「優れた兵站は戦闘力になる」でした。

 また、戦争が終わって米軍が撤退する段になると、ビジョンは「これ以上、一人の命も無駄にしない」になりました。

 すぐれた戦略は現場レベルの問題を解決できるものでなければならないでしょう。それをシンプルに表現したのがよくできたスローガンです。

 そう考えると、ラグビー日本代表の「ワンチーム」は薄氷を踏むようなものだったことがわかります。

 31名の代表の内、15人が外国人だったからです。

これは人種差別でも外国人差別でもありません。

 社会関係資本の研究で知られ「孤独なボウリング」などの著書があるアメリカの政治学者のロバート・パットナムの研究が明らかにしたことですが、共同体の中で社会的な多様性が生まれると、相互の不信が芽生えてしまう、それは異質な者同士だけでなく、同質な者同士(例えば日本人同士)でも不信感が出来てしまうのです。

 もちろん、不信感への対策は、社会的な分断を乗り越えて、社会的な連帯を生み出し、一体感を創り出すことです

 だから、「ワンチーム」がうまく機能しなければ、ラグビー日本代表もバラバラだったかもしれません。

 さて、この一体感は共同体意識です。共同体意識、あるいは集団への所属感とはどのようなものでしょうか。

「(アドラー心理学を語る3」(野田 俊作)では集団への所属感の一つとしてこんなものを挙げています。


自分も他者も対等だと感じている


 一方、その逆の集団からの疎外感としてこんなものが挙げられています。


自分だけが特別な例外だと感じている 


 自分だけが特別なエリート意識であれば、「ワンチーム」によって組織を一体にすることはできないでしょう。

 ゼロ年代には体育会系学生の集団強姦などの性犯罪を擁護して、「エリート意識の養成のためになる」という言い草がありました(もちろん、反道徳的な考えです)。このような選民思想では一体感の代わりに、分断と相互不信が生まれるでしょう。

 他人から抜きん出るたに能力の向上を心がけることは立派な性根ですが、他人の足をひっぱる俺が俺がでは、組織がうまく回りません。

 読者がひとりだけがエリート意識を持っていたら、自分だけは大物感を得られるかもしれません。しかし、チームのみんながみんが自分だけは特別だ思っているなら、バラバラになるでしょう。 

 しかし、「ワンチーム」といっても簡単ではありません。

 大きな物語(共同体意識)は80年代のポストモダンによって解体され、ゼロ年代になると勝ち組負け組がしきりに口にされるようになりました。

 つまり、自己利益の追求です。個々人が自己利益の追求をすることがもてはやされ、そのために他人を損させて自分が得をすることが、これからの日本を救う社会の道徳とされるような時代に、どうして「ワンチーム」が実現できるのでしょうか。

 昔の日本のように「滅私奉公」「一致団結」を口にしても、現場が疲弊して、上層部が得をするだけでしょう。格差の拡大です。

 ひとつの目標のために、個々人が行動を調整して協力することをゲーム理論では「連合」と呼びます。連合を生むためには、自分が得するだけなく他人も得をして、また、他人だけが得をするのではなく、お互いに得をするような状況を生み出さなければなりません。

 京都新聞2019年12月31日号にラグビー日本代表についてこんな記事が載っていました。


W杯日本代表の稲垣啓太選手は「ワンチームになるのは簡単じゃない」と振り返り、母校凱旋で「思いやりが大切」と伝えた


「皆は一つの目的のために」にという説明を耳にするようになったが、「皆が一人のために」を伴ってこそだろうという記事です。

 そこで悪い例を挙げると安倍首相でしょう(安倍首相も「ワンチームで」を口にしたことがあります)。

 首相が、外国の要人や各界の功労者を労う桜を見る会を支持者の接待にために用いた疑惑では、内閣府に保存されていた招待客名簿が、共産党が開示請求したその同じ日に廃棄された事件がありました。

 その事件について、安倍首相は障害者の職員が破棄したと説明しました。障害者を言い訳にした逃げ口上です。

 安倍首相は日本政府のトップとして君臨するのだから、下々がワンチームで政府に忠誠心を発揮すれば、労なくして利益を得る立場です。

 そんな立場に甘えずにワンチームを実践するなら、首相自らが政府職員や国民のために働かなければならないでしょう。政府を支えるために働いている職員や増税を受けいてくれた国民に感謝を表明し首相の至らなさで迷惑をかけていることに謝罪した方が健全でしょう。

 ワンチームという言葉をこうやって濫用すれば、あっという間に消費されて終わるでしょう。

 ただ「ワンチームでいきましょう」と唱えるのではなく、組織の抱える問題を解決して前進させつつ、世間の人々から憧れることを目指すべきでしょう。
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仕事を増やそう(創発を生むミーム 2020/01/06号)
 創発を生むミーム 2020/01/06号の「仕事を増やそう」の全文記事です。
 
2020/01/06号
仕事を増やそう

 経済が成長するとはどういうことでしょうか。

 最も単純なのは、何か財を生産することです。例えば、キャベツを収穫したり、マグロを釣ったり、缶詰を作ることです。

 しかし、財を生産したからといって、ただちにGDPに計上はされません。なぜなら、自家消費分はGDPに算入しないルールだからです。だから、実際にGDPを計算する時にも、農家が栽培した作物のうち、農家自身が消費する分は、GDPには計算されません。

 それでは、どうすれば生産した財がGDPに算入されるのかというと、取引された時です。

 取引とはなにでしょうか。お金と財を交換することです。それではお金とはなにでしょうか。「負債論」(デヴィッド・グレーバー)では、「負債」だとします。

 一般に、貨幣の起源は物々交換の仲立ちにされた「希少な財」が、貨幣に進化したことだと説明されます。例えば、日本では米が珍重されたから、物々交換で代用貨幣として使われ、その米に代わって貨幣が生まれたという説明です。

 しかし、実際に文化人類学者が世界の未開の部族を調査したところ、そのような代用貨幣は見つかりませんでした。

 それではなにが貨幣の代わりになったかというと、信用です。例えば、余った生産物をそれを欲しがる誰かにあげれば、自分が何か不足して困った時に、あげた誰かから、お返しをしてもらえます。

 だから、誰かに財を譲ると負債が発生し、そして、いつかはその負債を返済してもらえると信用できるから、取引ができるのです。

 さて、誰かを信用するためには、人なりを理解できなければなりません。しかし、人間が記憶できる人間関係は経験的に150人程度だとされます。ダンバー数とされます。これでは取引に限りがあります。

 これは「ビットコインはチグリス川に漂う」(デイヴィッド・バーチ)で指摘されていることですが、社会の中の人々の信用を人の脳に代わって記憶するのが貨幣です。貨幣は、信用情報の記憶物なのです。

 例えば、ポケットの財布の中の1万円札は「私は他人のためになる仕事を1万円分しました」という証明書なのです。そして、1万円を支払ったら「私のために1万円分の仕事をしてくれ」という要望なのです。

 このように、貨幣を使って取引されると、取引前より増えた付加価値の分だけ、GDPに算入されます。例えば、100円で買ったピクルスを漬けて300円で売れば、差額の200円がGDPに算入されます。

 さて、経済成長を追わず清貧に生きたいという人々の中には、成長を追わずに幸せに暮らす方法として、こんな言い方をすることがあります。

 お金に追われず、暮らしにお金のかからない田舎で人や環境に優しいなにがしかのロハスな物やサービスを生産し、それどころか、そんな人々の間で、消費を回しているんだ。経済成長を追わない、共生という新しい暮らしなんだ。

 この生き方は、経済成長の点においてなにか目新しいのでしょうか。目新しいと錯誤するのはGDP統計の誤解のせいです。それはこんな誤解です。

 経済成長を追うような商売は、大企業が大勢の消費者に商品を売って、収益を挙げる一方通行の貨幣の流れだ。ある人が消費者にも生産者にもなり、仲間同士でやり取りする双方向な貨幣の流れは、経済成長を追わない生き方だ。

 しかし、取引によって付加価値が増えるなら、双方向の貨幣のやりとりでも、GDPに計算されます。

 ある人がサンマを魚屋から買い、その魚屋が自動車をカーシェアリングし、カーシェアリング業者が、チケットを買って飛行機に乗る・・という循環的なお金の流れでも、やはり、取引によって付加価値が増えた分だけ、経済は成長しています。乗数の法則と呼ばれます。

 つまり、ロハスな暮らし方をしながら、同じ価値観の仲間内で消費を回しても、大企業が全国市場の消費者からお金を吸い上げ、その貨幣から設備投資の支払いをしたり、従業員に賃金を支払い、そのお金から消費しても、どちらも経済成長につながるのです(もっとも、企業が儲けを貯めこめば、その分だけ消費が減り、経済成長にマイナスですが)。

 もちろん、新たに商品やサービスを売り買いするたびに、原価分だけ儲けは減っていくので、いつかは生産と消費を回している儲け分の貨幣は尽きます。限度があります。

 儲け分の貨幣を使い尽くしてなくなった後の経済成長はどうなるのかというと、また新たに生産して消費すれば良いのです。原材料の購入に使われたお金そのものは消滅せず、売り手の財布に収まっているからです。

 また、銀行には貨幣を増やす力を持っています。生産者が受け取った代価を銀行預金に預けたら、そのお金を借りて、クルマや家を買ったり、あるいは、工場を建設できます。それらの商品の代価を受け取った生産者はさらに預金して……という流れです。銀行が市中で流通する貨幣を増やしているのです。信用創造とよばれます。ただし、銀行は預かった貨幣の一定額を日銀に預け直さなければならいないため(預金準備制度とよばれます)、無限には増えません。限度があります。また、借り手が破産すると、銀行が損をして、その分だけ産まれた貨幣が消失します。そのため、借り手の信用が必要です。担保や返済能力です。

 さて、GDPが産出されるには、三つの要素が必要です。生産、貨幣、取引です。ただし、貨幣はしまいこまれて使われないこともあり、実際にGDPに計上されるのは、使った分、すなわち需要分です。

 しかし、生産と貨幣は常にぴったり一致するわけではありません。生産力より貨幣(より正確には需要)が大きければ、インフレになります。逆に、貨幣(より正確には需要)より生産力が大きいなら、デフレになります。

 そのため、貨幣経済だからといって、常に取引が生まれるわけではありません。貨幣(より正確には需要)が不足している場合があるからです(逆に需要があっても生産が追い付かないケースもあります。スタグフレーションといって、インフレを伴った不況です。デフレ不況下にある日本には当てはまらないので、この記事では扱いません)。

 これは「クルーグマンの視座」(ポール R. クルーグマン)で紹介されていた研究ですが、あるマンション管理組合でアイスクリームの棒を代用貨幣にして、子守の交換が試みられてことがあります。子守を引き受ける代わりに、代用貨幣の棒をもらい、自分が子守をしてもらいたい時に、子守をしてくれる人物に棒を譲るのです。もちろん、棒を勝手に増やしてはいけません。最初に一家庭につき三本配ったきりです。

 ところが、実際に初めて分かったことは、みんないざという時に子守を頼めるように、棒を貯めたがったことです。そのため、子守を引き受けたいひとはたくさんいても、子守を頼みたいひとはちっともいませんでした。そのため、取引が発生したなかったのです。

 解決策が講じられました。配布する棒の数を一家庭につき二本、無償で増やしたのです。そのため、マンション管理組合内の子守市場も活発に動くようになりました。

 さて、このマンション管理組合内の子守市場は、デフレ(現金不足)だったわけです。そして、貨幣が供給されることで、取引が発生する、つまり、マンション管理組合内のGDPが増加したのです。

 この教訓をどう取るべきでしょうか。貨幣を供給すればデフレ不況が克服され、取引が活発化してGDPが増えることでしょうか。あるいは、貨幣を貯めたい心理が貨幣を使いたい心理に変われば、取引が起こりGDPが増加するのでしょうか。

 それが実際に判明したのがアベノミクスです。アベノミクスによって日銀は国債を買い取り、市中に数百兆円の現金を供給しました。しかし、ずっとデフレのままでインフレにはなりませんでした。

 デフレ不況を克服するためには、消費者や企業が貨幣を使いたい心理にならなければならないです。

 そのためには、どうすれば良いのでしょうか。消費者は安定した収入があるから、安心して購買できるでしょうし、企業にとっては市場が拡大しているから、投資したいのでしょう。

 労働者の賃金が将来的に増えると見こめるなら、労働者は消費を増やすだろうとノーベル賞経済学者のミルトン・フリードマンは述べています。そして、労働者の賃金は、生産性の向上に比例して増えることが国際的な統計調査で分かっています(ただし、近年のアメリカでは労働生産性が増えても、賃金が増えないという統計もあります)。

 また、銀行が貨幣を貸すためにも、信用力のある消費者か企業が必要です。信用力のある消費者とは、定職についていて安定した収入がある人物のことですし、新要領のある企業とは、事業計画がしっかりして返済計画にぬかりのない組織のことです。

 そして、銀行が貨幣を貸し出さないとは、信用創造によって市中に流通する貨幣が増えないということです。貨幣が増えないなら、インフレも起こりません。

 さて、話を最初に戻すと、経済が成長するとは、財が生産され、貨幣が供給され、消費者と生産者の間で取引が発生することです。

 今の日本では、需要不足のせいで取引が不足しています。デフレです。その原因は、企業が投資せず消費者が財を購入しないデフレマインドのせいです。それを投資したい消費したい心理に変えるには、政府が財政出動して、仕事を増やすことで労働者の賃金を増やしたり、消費者の家計を助けなければなりません。。

 正確には内閣府の発表によると、2018年の日本の需給ギャップは+0.2%でした。供給より需要の方が大きかったのです。しかし、金額に直すと1兆円程度です。政府の進める構造改革によって供給を増やせば(構造改革の目的が供給増であることは、日本で最初に構造改革を導入した小泉内閣の竹中平蔵経内閣府特命担当大臣が最初から明言していることです)、なにしろ日本のGDPは500兆円もありますから、簡単に供給が需要を追い越すでしょう。

 ところが、実際の政治はそれに逆境しています。

 例えば、政府の働き方改革では、高度プロフェッショナル制度(通称残業代ゼロ法案)のように、労働者の収入が減るような国策が実現されれています。企業の利潤は増えても、消費は減るでしょう。

 あるいは、政府は消費税増税によって実質賃金を引き下げました。労働者は消費者でもあるので、その収入が減れば、子守市場がそうなって凍りついたように、労働者が消費を減らし、日本全体で見れば、国内市場を低迷させる結果となるでしょう。

 ただ、仕事を増やすと聞くと、読者の中には「人手不足倒産が……」が思う人もいるかもしれません。少子高齢化による人手不足は確かに問題です。だから、設備投資などで労働者一人一人当たりの生産性を上げることが必要です。労働者の仕事を増やし、労働者一人当たりの仕事量も増やし、そして、労働者の賃金が増え、その労働者が家庭に帰ってから消費を増やす、あるいは家計が楽になって消費が増え、仕事が増えて賃金も増える循環を作らなければ日本経済は成長しません。
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クラスター感染のクラスターって何?
 新型コロナウィルスの感染拡大が起こっています。コロナウィウィルスの感染拡大に不安視されているのが、クラスター感染(集団感染)です。例えば、ライブ会場などの不特定多数が集まる場所(そして感染しやすい換気の悪い場所)で同時に多数が感染することです。

 また、コロナウィルスの感染は、ひとりの患者から感染が広がるのは数人程度と見積もられています。しかし、ごくまれにスーパースプレッダーとよばれるひとりで70人にも80人にも感染させる患者が出現すると考えられています。

 そもそもクラスターとはなんなのでしょうか。また、スーパースプレッダーはどうして出現するのでしょうか。「新ネットワーク思考」(アルバート・ラズロ・バラバシ)を参考文献に解説します

 クラスターとはこの場合はネットワークの研究で提唱された概念です。

 ネットワークとは、インターネットもそうですし、人脈の連なりもそうですし、流行の広がり方(流行り廃りもウィルスの感染も)もネットワークでとらえられます。

 ネットワークはどのような姿をしているでしょうか。ネットワークの科学では、ネットワークを構成する要素をノード、ノードとノードのつながりをリンクと呼びます。

 具体例を挙げて解説します。

 アメリカの映画俳優の共演歴を、俳優をノード、共演関係にあることをリンクとして統計を取るとわかることがあります。

 共演関係は、例えばポルノ映画のようなジャンルの中で閉じた関係を持ちます。その中には、多数の俳優と共演関係を持つ俳優もいれば、同じ俳優との共演関係ばかりで、新規の俳優との共演関係がおろそかな俳優もいます。

 しかし、ジャンル全体で見れば、多数の共演関係を持つ俳優たちと結びつく形で、ひとつのネットワークを構成します。これがクラスターです。クラスターはブドウの房を想像してください。ブドウの実がノードで、軸がリンクです。

そうすると、スーパースプレッダーとなる患者は、共演歴の豊富な俳優同様な、多数の人間と接触関係にある人物だろうと想像できるでしょう。しかし、ネットワークはこれだけではありません。

 クラスターとクラスターとを結びつける役割のノードがあります。これがハブと呼ばれます。映画の共演関係で言えば、様々なジャンルの映画に出演していて、映画界全体を結びつける役割を担います。ただし、リンクの数(共演した俳優の数)が群を抜くほど多いわけではありません。それより重要なのはネットワーク全体の中でのポジションです。

 ウィルス感染でいえば、様々な組織、地域社会、年齢層などと関わりのある人物がハブとなりうるでしょう。

 ハブとなる人物は、なにしろ複数のクラスタと接触を持つのですから、感染のリスクが高まります。一方で、自身が感染すれば、複数のクラスタに感染を広げてしまいます。だから、感染予防も、感染を広げることを予防することも重要です。

 それではどんな対策があるでしょうか。いくつか挙げてみました(他にもあるはずなので、読者も考えてみて下さい)。

・発熱があれば微熱でも外出を控える

・外出時はマスクを着用する(自分が感染するのを防げなくても、飛まつ感染が広がるのを防ぐ効果がある)

・テレワークに切り替える

・訪問先の入退出ごとにアルコールか石けんで手を洗う(あるクラスターでの感染を防ぐだけでなく、次に訪問したクラスタに感染が広がるのを抑制する効果が望める)

・帰宅時にも手を洗う(WHOと中国の調査では、クラスター感染の8割は家庭内でした)

 コロナウィルスを恐れるのはインフルエンザウィルス同様、感染症を恐れるようなものです。まずは、手洗いを励行しましょう。
author:taiga, category:-, 16:25
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リベラルアーツの将来性(創発を生むミーム 2019/12/01号)
 創発を生むミーム 2019/12/01号の「リベラルアーツの将来性」の全文記事です。
 
2019/12/01号
リベラルアーツの将来性

 実用的であればよい、学校教育の場で、芸術や音楽や学問的な深い議論など無用だという意見があります。そのかわりに何を学校で学ぶべきかというと、宅建(不動産取引に関する資格)だったり簿記検定だったり、資格試験の勉強です。学問ではなく実学を学べばよいという意見です。

 そして、ホワイトカラー労働者(知識労働者)としての勉強は、それでは何なら良いのかというと、頭脳労働は、誰かが書いた正解を能率的に探し出せれよいという意見です。

 この考え方の問題はいくつも指摘できます。

 まず、権威主義に陥ることです。

「正解を探せばよい」とは、つまり、学校教育なら教科書や教師や参考書が正解を持っていたり、社会に出れば会社のマニュアルに正解が書いてあって、その正解を迅速に見つければよいという考えです。

 それでは、実際に何をもって正解が書いてある種本だと判別するのかというと、回答者の肩書や所属次第です。つまり、えらい先生が書いていることだから、正解だろうという考えです。

 なぜそうなるのでしょうか。正解の探し方にいくら熟練できても、中味を読んで、学問や芸術などの良し悪しや是非を判断する能力が養われるわけではありません。だから、いくつかの矛盾する解答を読んで、自分の頭で内容の良し悪しを判断して、正解を選ぶことができません(ある問題の解答が複数あることは社会の中では珍しいことではありません。学校教育の解答がひとつしかないのは、文部省の定める教育指導要領で答えが決まっているからです)。そのため、権威主義を手がかりに正解を選ぶことになります。

 もちろん、図書館司書がレファレンス・サービス(利用者の求める情報を書籍や雑誌などの資料で回答すること)でそうするように、利用者の求める資料を探し出したり、利用者の疑問に資料で回答する訓練が社会の中でまったくムダなわけではありません(日本維新の会は学校司書の拡充は将来はAIで代替可能だから不要と主張していますが、今のところ、アップルもグーグルもアマゾンも、図書館司書の代わりになるようなAIを作れていません)。

 また「正解を探せばよい」は、丸暗記教育とセットになっています。つまり、正解を見つけたら、定型化されたルーティンワークを丸暗記して熱心に出力することです。

 この価値観では、悩んだり考えたりすることは欠点として減点の対象になります。つまり、「こんな簡単なことも、悩んだり考えてないと覚えられないのか」と軽侮の対象になることです。

 しかし、自分の頭で悩んだり考えたりしないかぎり、創造性の訓練にはなりません(例えば、「賃金ゼロの社会」に書いた思考実験など)。もちろん、最初のとっかかりとして模倣は有意義で奨励されるべきですが(アイデアは無から湧いてくるわけではないからです。複数の知識を組み合わせ、新しい視点を持ちこんだ時に生まれます)、だからといって、「正解を探せばよい」では、いつまでたっても(創造性を養う観点で)成長はありません。

 そして、学校教育の場において、「正解を探せばよい」程度の学習を奨励すことの最大の弊害は、このような頭脳労働は、遠からずAIにとってかわられると予測できることです。

 ブルーカラー労働者(肉体労働者)だけでなく、ホワイトカラー労働者(知識労働者)の頭脳労働やサービス業の労働者であっても、定型化されたルーチンワークはロボットやAIにに仕事を奪われる時代が来るでしょう。

 ブルーカラー労働者がロボットに仕事を奪われていることは周知のことです。何十年も前から工場で当たり前のようにロボットが使われています。

 一方、ソフトバンクのロボットのペッパーのように受付嬢の仕事をするロボットは現に現場で商業利用されています(クライアントの企業からの継続利用の獲得は苦戦しているようですが)。

 また、スマート・スピーカーやスマートフォンの音声応答用AIのように、簡単な検索作業や注文を人に代わってAIがすることが、家庭の場で当たり前になっています。いずれは秘書の代わりにAIが働くのでないでしょうか。

 そして、ホワイトカラー労働者がAIに仕事を奪われることも、もう間近でしょう。例えば、弁護士の補助員が判例を調べる作業をAIが務めるという研究があります。また農作業の収穫時や病虫害の予測をAIにさせる研究もあります。

 囲碁やチェスや将棋、あるいはポーカーなどでもAI抜きには考えられない時代が来ています。このようなAIは、限定された専門領域でしか働けないため、弱いAIと言います。弱いAIはすでに人間を凌駕できる能力を持ちます。一方で、人間の知能そのものを挑戦領域とするAIは、強いAIといいますが、まだ、基礎研究のレベルです。

 ただ、2015年の野村総研とオックスフォード大学の共同研究の発表では、10年から20年後には、日本の労働人口の49%がAIやロボットに置き換えらるされています。

 これからの人生設計では、他人との勝負で勝ち組になるのか負け組になるのかについて考えるだけでなく、ロボットやAIが競争相手になることも考えないといけないでしょう。

 冒頭の「実用的であればよい」という考えは、そんな時、人間相手では即戦力になれると思われるかもしれませんが、ロボットやAIとの競争では完敗するかもしれません。

「ミライの授業」(瀧本哲史)ではメイド・イン・ジャパンだった工場の現場が、メイド・イン・ロボットになったと説明しています。日本の熱心に働く熟練した工場労働者は高い品質の代名詞ですが、ロボットが代わりに働くなら、世界のどこにいっても、競争力は変わりません。

 さて、正解がどこかに書いてあって、それを探してくるだけなら、教養なんていりません。AIが代わりにやってくれます。指示されたことに従うだけなら、教養なんていりません。マニュアル化されて海外の安い労働力にアウトソーシングされます。あるいはロボットが働きます。みんなで一緒になって定型化されたルーチンワークを熱心にくり返すだけなら、教養なんていりません。これではイノベーションは生まれません。欧米の商品をロールモデルに、それより少し品質の良い商品をがんばって(定型化されたルーチンワークを熱心にくり返して)作るだけなら、教養なんていりません。日本の電機産業の世界的な衰退がその限界を物語っています。

そもそも、他人が書いた正解を探すだけなら、グーグル検索で十分です。そんな仕事は、今後AIに置き換えられるでしょう。人間の代わりにAIがグーグル検索してくれるでしょう。

 私も記事を書くのにグーグル検索を活用しています。人名や年代や固有名詞を調べるのにグーグル検索を使っています。また、記事の論点ごとにグーグル検索にかけて、知識を深めます。しかし、グーグル検索で手に入る正解は他人の二番煎じです。グーグル先生の解答だけに頼っていたら、その他大勢にしかなれません。

 創造性を発揮しようとしたら教養が必要です。創造性は、無から湧いてくるものではなく、すでに持っている複数の知識が組み合わさってインスピレーションとなり、生まれてくるからです。そして、リベラルアーツ(つまり教養)を学べば、人のことや社会のことについて、自分と違う考え方にふれ、広い知識を育めます。もちろん、実践的な知識を身につけるには、自分で解答を出す訓練も必要です。

 そして、定型化されない創造的な仕事ができることは、AIと競争する今後のサラリーマンにとって大事なスキルです。

 長い間、日本の教育の現場は混乱していました。80年代までは詰めこみ教育で良いという考えでした。定型化されたルーティンワークを熱心に丸暗記する教育観です。中等国の教育と呼ばれ、発展途上国が先進国を模倣して追いつくための教育です。

 しかし、日本が欧米の先進国に追いついてからは創造性を養う必要があるとされ、その方策として、ゆとり教育が採用されました。学校の授業時間を減らせば、創造性が養われるだろうという考えです。当たり前ですが、国際社会における日本の教育の水準を低下させるだけに終わり、失敗しました。授業時間の多寡と創造性は無関係だからです。

 その後は、また詰めこみ教育に戻ったのですが、近年はアクティブラーニングといって、子供が自分で正解を考えるスタイルの学習が推進されています。テストで点をを取るための学習から、正解を自分で考える学習への移行です。

 教育の現場のことまではわからないのですが、創造性を養うためには、自分の頭で考えることは大切なことではないでしょうか。こういう授業が当たり前の社会で育ったら、冒頭のような暴論は減るのではないでしょうか。
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賃金ゼロの社会(創発を生むミーム 2019/11/01号)
 創発を生むミーム 2019/11/01号の「賃金ゼロの社会」の全文記事です。
 
2019/11/01号
賃金ゼロの社会

「労働者は(生きるために)市場から退出できない」の記事で労働者不退出定理について書きました。

 理論上は労働者はタダでも働きます。労働者はどんなに低賃金でも労働市場から退出できないからです。もちろん、実際にそうなる場面はなかなか想像しがたいのですが、不況下で「キャリアの形成になるから」「景気が良くなったら賃金がもらえると約束されたから」などの理由で労働者がタダでも働くとします。つまり、将来の賃金を約束されたから、今、タダで働くと想定します。

 さて、経済学の概念に社会的余剰があります。財の生産によって生まれたメリットです。市場で財が取引された時、社会的余剰は消費者と生産者に分配されます。消費者の取り分(購入した財によって得たメリット)を消費者余剰、生産者の取り分(儲け)を生産者余剰と言います。

 労働市場では、労働者の得るのが生産者余剰、企業が得るのが消費者余剰になります。

 話を戻して、労働者がタダ働きしてできた生産物の社会的余剰は、すべて企業が得ることになります。この場合、もちろん生産者余剰はゼロです。

 ここで最低賃金制度が導入されるとどうなるでしょうか。労働コストが上昇するため、企業は求人を減らします。一方、最低賃金に職を得た労働者の人数をかけたものが、社会的余剰から生産者余剰として労働者に分配されます。

 ただし、職の数が減るため、社会的余剰自体は減少します。もちろん、減少した社会的余剰は、労働者がタダ働きで生み出した分ですが。

 マーケットメカニズムによる需要と供給のバランスを絶対視するなら、この社会的余剰の減少は、「社会のバランスが壊れた」ことになり、問題視されます。

 ただし、それには前提があって、取引に参加する関係者全員が取引に納得していることです。だから「キャリアの形成になるから」「景気が良くなったら賃金がもらえると約束されたから」などの理由で労働者が自発的にタダ働きしているなら、最低賃金によって求人数が減るのは、政府の余計なおせっかいです。

 しかし、労働者は食べて生きるために労働市場から自由に退出できないのだから、これは自発的な労働ではなく、一種の奴隷労働でしょう。

 もちろん、いくら賃金が下がっても労働者がまったく労働市場から退出しないと仮定するのは無理があります。年金生活者や主婦のように働かなくても食べていけるなら、タダ働きはしないでしょう。また、労働市場で職を探すのをあきらめて、大学生や大学院生に戻って、専門知識を養う人もいるでしょう。あるいは、ベーシック・インカムが実施されたら、働かなくても食べていけます。

 しかし、そんな人でも、誰かの労働のおかげで(主婦や年金生活者やべーシック・インカムの場合)、もしくは、過去の労働の蓄えで(学生に戻る場合)、生活できるのです。そう考えると、労働者は労働市場から退出できません。

 この記事では労働者がタダでも働くと仮定しましたが、もちろん、労働者が疲弊するので、あったとしても長続きしないでしょう。

 ここで特記しておきたいのは、「タダでも働く」という前提は、長続きしない、経済学的に短期の話であることです。

 長期に渡って続けば、「賃金が支払われないなら、働かない」と労働者が労働市場から退出するため(生活保護などのセーフティーネットに頼るか、ホームレスになるか、犯罪に走るか、自殺するか餓死する)、やっぱり企業は賃金を払わないと、労働者が集められなくなります。もちろん、賃金を払うなら、労働コストが上昇するため、就業できる労働者の数は減ります。

 具体的にはこのようになります。

 今の日本は少子高齢化にともなう労働人口の減少のため、完全雇用が達成されています。2018年平均の有効求人倍率は1.61倍でした。ここで2008年の世界不況を超える巨大不況が世界を襲い、規制がなければ賃金ゼロで働く社会になったとします。最低賃金制度は、労働者の賃金を守り、生産者余剰が確保されます。ただし、社会的余剰は損ねます。

 その時に、「自由な労働市場が経済を強くする」からと岩盤規制が壊され、最低賃金制度が撤廃され、巨大不況下で労働賃金がゼロになるとします。この労働環境が長期に渡れば、労働者は賃金が支払われなければ労働市場から退出するようになり(働くことに絶望する)、企業が自発的に労働コストを負担しなければ、労働者が集まらなくなるでしょう。

 経済学の原則の一つは、誰かの支出は別の誰かの収入になることです。労働者の収入がゼロになる(企業が支出する労働コストがゼロになる)ことは、消費者の支出も減少することです。デフレ不況がより深刻になるでしょう。

 経済学には、期間について二つの考え方があります。短期と長期です。

 これは、何年と年期を限ったものではなく、もっとざっくりしたものです。短期とは、需要調整のように、一時的な変動のことです。長期とは、そんな短期の変動が市場経済のメカニズムによって調整されるまでの期間です。

 ケインズ学派は、短期の視点から、デフレ不況には財政出動が必要だと説きます。

 一方、新古典派経済学では、長期の視点から、不況も市場に任せればよいと説きます。安倍政権がデフレ不況下でも、緊縮財政や構造改革を進めるのは、政府の役割を縮小して市場に任せれば景気が良くなるという新古典派経済学の考えに沿ったものです。

 この記事では、短期とは、放置すれば日本のように数十年も不況が続くが、財政出動をすれば世界不況下のアメリカのように数年で立て直せるデフレ不況下に対して使います。

 長期とは、デフレ不況を克服して、好況になったり、そこから需要が超過して供給力不足によるスタグフレーション(インフレを伴った不況)に陥った時に使います。

「長期的には企業は賃金を支払う」から「労働規制は不要」なら、「短期的に労働者の収入がゼロになる」ことに目をつぶることです。

「企業は労働コストを負担しなければならない」のなら、「短期的には労働規制に従い」、「長期的には労働市場の自由に任せる」ことで、長短期的な労働コストの変動をならせられるでしょう。

 なお、見方によっては、最低賃金制度は一種の課徴金を企業から取り立てて、職にありついた労働者に分配するようなものです。失業者から見れば、既得権益に映るでしょう。

 ただし、この場合でも、先ほど例に挙げた巨大不況が起これば、最低賃金制度がなければ、労働者はタダ働きすることになるでしょう。

 もちろん、これらは思考実験(ある条件下での物事のふるまいを想像してシミュレートすること)です。すべての労働者の賃金がゼロになるほどの不況は、今のところ、記録されていません。

 しかし、不況下で立場の弱い労働者は、労働規制がなければ賃金が減少の一途をたどると推測できます。

 経済学における賃金の見方は大きく二つあります。賃金の下方硬直性を認めるのか認めないかです。

 賃金の下方硬直性とは賃金の下がりにくさのことです。下がりにくい理由は、最低賃金などの労働規制のせいだったり、労働組合が力を持っているせいです。

 賃金の下方硬直性を非効率だから認めない立場から出る政策が、「労働規制は岩盤規制。つき壊さなければならない」なのです。

 しかし、この記事で見てきたように、賃金ゼロの社会の労働は、企業による労働者への一種の奴隷労働です。下方硬直性を認めなければ、デフレ不況下で労働者の暮らしは成り立たなくなります。また、デフレ不況も深刻化します。そのため、岩盤規制が必要です。

 ただし、「下方硬直性をどの程度まで認めるのか」という別の問題が残ります。最低賃金制度が社会的余剰を減らしていることは確かだからです(とはいえ、賃金ゼロの社会では社会的余剰とは企業の収奪なのですが)。

 それならばどれぐらいの下方硬直性に社会は耐えられるのでしょうか。そのひとつの目安が、労働者の取り分である(経済成長がマイナスにならない範囲で)生産者余剰が最大化されることです。

 この場合、労働者の数は岩盤規制が廃止された時より減りますし、企業の取り分である消費者余剰も減るのです。しかし、ひとつ、社会によって良いことがあります。それは、消費者の購買力が最大化されることです。

 世の中の誰かは、労働者として働き賃金をもらいますが、会社から家に帰れば、消費者として商品やサービスを購入します。それならば、消費者の購買力が増し消費者市場が最大化することは、企業にとってもメリットがあります。ただ、株主の取り分は減ります。

 もちろん、労働者が収入を消費に回すなら、株主だって配当収入や株式譲渡利益を消費に回すはずです。しかし、ジャーナリストの梶原一義によると、このような株主利益は、高所得者への集中が進んでいます。

”株式譲渡益や配当所得など金融所得は、富裕層に集中している。国税庁の「2014年分申告所得税標本調査結果」によると、株式譲渡益と配当所得が各3000万円超の人数はともに全申告者の1割前後だが、彼らの所得は配当所得で全体の7〜8割、株式譲渡益で8〜9割を占めており、その比率は年々上昇している。高所得者への「富の集中」が進んでいるのである。”

所得1億円超の金持ちほど税優遇される現実
https://toyokeizai.net/articles/-/201951?page=3

 また「税金格差」(梶原一義)によると、高額納税者の所得税負担率は、年収一億円のおよそ28%を境に下落の一途をたどります。所得に占める株式譲渡所得が多いためです。所得税は所得が多いほど段階的に税率が上がります。累進課税です。しかし、株式譲渡にかかる税金は一律でおよそ20%です。そのため、株式譲渡の利益が多い高所得者の所得税負担率が下がります。

「夢と消えたトリクルダウン」の記事で取りあげましたが、日本の場合、高所得者ほど貯蓄率が高く、この層に収入が集中すると、国全体で見た消費が減少します。だから、労働者の取り分を増やし、格差を解消した方が、経済にプラスになります。

 もちろん、日本では会社は株主の物のため、経営者の一存で、株主利益の最小化と労働者利益の最大化が実現することは無理でしょう。そんなことをした経営者は、株主から解任されてしまいます。

 実現のためには、国が労働分配率(おおざっぱに言って、企業の儲けのうち、労働者の取り分)の上昇を目標に、労働規制を高めないといけません。

 日本の株主第一主義のお手本となったアメリカでは、アップルやアマゾンも加盟する経営者団体であるビジネス円卓会(円卓はアーサー王伝説に登場する円卓の騎士の円卓のこと)は、今年8月、株主第一主義を放棄してすべての利害関係者に配慮すると声明を出しました。日本でも労働者の権利を守るために、大胆な改革が必要です。
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ムラ社会と横のつながり(創発を生むミーム 2019/10/01号)
 創発を生むミーム 2019/10/01号の「ムラ社会と横のつながり」の全文記事です。
 
2019/10/01号
ムラ社会と横のつながり

 日本は集団主義の強い社会です。また、階級志向の強い社会でもあります。集団主義とは、みんなと同じであれば良いという社会です。階級社会とは、集団の中で構成員をランク付けして、序列を作り、下の者を上の者に従わせる社会です。

 集団主義にも階級社会にも、良い所もあれば悪い所もあるでしょう。集団主義だから、集団の和を保てるのでしょうし、階級社会だから、集団全体を統率できるでしょう。

 でも、それだけだと息が詰まりますよね。そんな社会の中で横のつながり(コミュニティのみんなが顔見知りでその中でどんな役割かで対人関係が決まる集団主義による関係ではなく、コミュニティ外も含む個人間の関係)を作るにはどうすれば良いのでしょうか。

 まず、日本社会の理解の材料として、三つを挙げます。「他人同調志向」「下請け志向」「ムラ社会志向」です。以下はそれらについて論じます。

「他人同調志向」とは、集団の中で、他人に合わせるのが良いという価値観です。保身や打算から他人の空気を読んで合わせるのは、自分を殺す作業です。

「下請け志向」とは、従う代わりに守ってもらう考え方です。例えば、東海第二原発の再稼働同意権の周辺自治体への拡大に、当の周辺自治体が反対したことが挙げられます。東海第二原発の再稼働の同意権が、立地自治体から拡大して、周辺自治体に広げられました。その時、同意権を新たに与えられた自治体の中には、反対した自治体がありました。同意権が与えられると、自身の権限が増えるのにです。

 これは守ってもらう代わりに従う「下請け志向」ではないでしょうか。つまり、自治体が責任をとって原発の安全性を確認して同意権を行使するのは面倒だから、国のやることに従う代わりに、国に守ってもらおうという意識ではないでしょうか。

「ムラ社会」は、日本人に説明する必要はありせんね。構成員全員がお互いに面識のある狭い集団の中で、集団の和を守ろうという考えです。

 そんな集団主義の社会の中で個人の価値を高める特徴が、京都企業の文化について説明した「京様式経営」(末松千尋)で論じられている「独立心」「向上心」「創造性」です。

「独立心」とは自立することです。例えば、タクシー業界の中のMKタクシーです。タクシー業界も官民癒着したムラ社会で、行政をタクシー会社を守るために、運賃を規制して、競争を禁じます。MKタクシーをその運賃規制に従わず、逆に運賃規制は違法だと訴訟で行政に勝訴したほどです。

「向上心」とは、他人から抜きんでるために、自分を磨くことです。「下請け志向」なら考えることは守ってもらうために、元請けにどう取り入るかですが、能力を向上しようとするのは、立派なことです。

 最後の「創造性」とは、突きるめると、他人と違うことを追いかけることです。業界には業界で長年に渡って積み重ねられたベストプラクティスがあって、それから外れることをすれば「わかってない奴」として、外されてしまいます。ベストプラクティスから外れることを追いかけるのは、大変勇気のいることです。

 例えば、20年ほど前の音楽業界では、CDを売って儲けるのが目的で、ライブもCDセールスのための販促でした。そもそも、レコード会社はテレビドラマの主題歌などのタイアップを取って、リスナーには、カラオケが歌う曲の練習のために、CDを買ってもらいました。

 今は、CDが売れないからライブで儲けるのが目的だし、カラオケバブルもはじけ、タイアップをとっても、(楽曲の販促にはなっても)カラオケ目的でCDは売れません。

 一方で、アメリカのロックバンド、グレイトフルデッドのように、60年代から、30年もライブで儲けることを主目的としたバンドもありました(バンドのリーダーが亡くなったため解散)。

 さて、「独立心」「向上心」「創造性」を実践できる社会とは、集団主義や階級社会ではなく、個人主義で生きられる社会です。自分の道を追求できる社会だからです。

 個人主義と聞くと、「勝手わがまま」「利己主義」と勘違いして、反発する読者もいるかもしれません。しかし、個人主義とは、いろんな人がいていい社会のことです。

 このような個人主義ができる社会なら、横のつながりも作れると期待するかもしれません。つまり、集団主義や階級社会の中の「息抜き」(息抜きとはこの場合、毎日顔を会わせる集団からは得らない予想外の情報や有益な機会に接すること)が横のつながりなら、そんな横のつながりがある社会では、個人主義が認められなければならないのです。

 しかし、横のつながりを作ろうとすると、日本社会の特性が邪魔します。横のつながりを作ったつもりで、徒党を組んで下剋上を起こし、新たなムラ社会を作ってしまうことです。

 これは日本社会の人間関係を説明した「タテ社会の人間関係」(中根千枝)で論じられていることです。

 欧米のような個人主義者の社会には、(上下関係の中だけでなく)横のつながりの中にも社会のルールがあります。一方、日本社会では、(横のつながりをつながりを作るのが下手だからそうなるのか、そうだから横のつながりを作れないのかはわかりませんが)横のつながりのルールがありません。そのため、横のつながりの関係を維持できず、最初は横のつながりでも結局は徒党を組む形におさまります。そして、集団の上層部への反逆という形になります。

 これでは金太郎あめはどこを切っても金太郎あめなのと同じで、ムラ社会を変えようとしても、やっぱりムラ社会のままなのです。

 それでは、横のつながりを作り維持するために、どんなルールが必要なのでしょうか。

 まず、目指すべき関係は、「人権思想の下、国民ひとりひとりが幸福を追求できる社会」ではないでしょうか。これなら、横のつながりの関係の中で、お互いの幸福を尊重できます。

 人権思想と聞くと、「勝手わがままの言い訳」と思う読者もいるかもしれません。「権利の意味をはき違えている」という論法です。しかし、お互いの人権を尊重し合わないと、自分の人権も守ってもらえません。また、日本国憲法にも、権利を濫用してはならず、公共の福祉に反せず(他人に迷惑をかけてはいけないこと)、国民の不断の努力によって権利を守らなければならないことが明記されています。

 それでは、お互いの人権を尊重するためには、何を心がけるべきなのでしょうか。

 人権といっても色々な受け止め方ができるでしょうが、この記事ではシンプルに四つのルールにまとめました。

「他人を傷つけない」「無責任はいけない」「自分の好みや嗜好を他人に押しつけない」「自分勝手ではいけない」の四つです。

「他人を傷つけない」は説明不要でしょう。他人を傷つけることは、被害者の幸福追求に反します。

「無責任ではいけない」は、社会を守るためだけでなく個人も守るルールです。自分が責任を取らなくてよいと聞くと得できると思う読者もいるかもしれません。しかし、そんな社会だと、モラルのある社会なら自分に対して責任を取ってくれると期待できる立場の人物まで、読者自身に対して、責任を取ってくれないでしょう。友人は貸した金を返してくれないでしょうし、町の道路でも、道幅いっぱいに広がって歩く集団が、往来を邪魔するかもしれません(20年ぐらい前のプチ社会問題です。自分個人は道を歩いている意識はあっても、集団として往来を妨害している意識がなかったためでした)。

「自分の好みや嗜好を他人に押しつけない」は説明が必要です。これは自分の好みを押し殺せという意味ではありません。自分にとって合う価値観があるように、他人にとっても合う価値観があります。だから、価値観が合う合わないで、側にいてくれる人もいるでしょうし、離れていく人もいるでしょう。しかし、自分の価値観を押し付けるのは、やめようというルールです。

 ただ、人間関係はそんな単純なものではないという読者も大勢いるでしょう。自分らしさを出すための天敵は、他人の好みを押し付けられることではなく、集団同調圧力にさらされることだからです。例えば、「(流行っているけど)○○をまだやってないの?」とか「それちょっと、(周りから)羽目を外していない?」などです。もちろん、(集団同調圧力を盾に)集団に合わせようと圧力をかけることも問題です。

 集団の和を乱されたら規律を守れない。自分勝手では困るという意見もあるでしょう。この場合、大切なのは理由を説明して納得してもらうことです。

「自分勝手ではいけない」は、自分の都合や自己利益の追求を他人に押しつけてはいけないという意味です。権利の濫用をいけません。例えば、(公に対する)私人間の法律である民法の基本原則の一つは、権利の濫用の禁止です。例えば、訴訟をひんぱんに起こせば、訴訟権(自分の利益を守るために裁判に訴える権利)の濫用と裁判官に認定され、敗訴するかもしれません。自己主張ばっかりだと裁判にも勝てなくなります。

 日本社会が、横のつながりを作って人のつながりを豊かにできる社会になるのか、徒党を組んでムラ社会に退行にするのか、taigaにはよくわかりません。?言うまでもなく、taigaがコントロールできることでもありません。横のつながりを維持したいなら、そのためにできることを読者ひとりひとりが考えて心がけてください。
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政冷経冷(創発を生むミーム 2019/09/01号)
 創発を生むミーム 2019/09/01号の「??」の全文記事です。
 
2019/09/01号
政冷経冷

 日韓関係の悪化がとまりません。韓国の最高裁による徴用工問題(戦時中に韓国人が労働者として徴用されたことへの賠償請求)の判決と日系企業の資産差し押さえ、それに反発した安倍政権による韓国への半導体製造材料の禁輸とホワイト国指定(輸出許可の簡便化)の解除と、それに反発した韓国人の三分の二が参加する日本製品不買運動など、軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄の恐れと、日韓関係に先が見えません。

 この問題には様々な政治的立場から取り挙げられるでしょうが、この記事では、日本の戦後外交の変化という点から取り挙げます。

 戦後日本の外交の方針のひとつが政冷経熱です。戦後日本は平和な国というイメージが世界にありますが(東日本大震災でも世界中の国から支援がありました)、ここ東アジアでは違った見方があります。つまり、過去に侵略した国です。

 戦前の日本は、韓国併合(朝鮮半島を日本領にした条約。反対した韓国の王族は日本軍に殺害された)による韓国の侵略や、日清戦争や日中戦争などの中国への侵略をくり返しました。

 そのため、韓国や中国の日本への国民感情は悪く、反日感情の強い国々です。

 そんな反日国における戦後日本の外交政策が政冷経熱です。政治的には関係が冷えこんでいても、経済交流を通じて友好関係を育もうという政策です。正確には政冷経冷は90年代以降の日中の関係を表す言葉ですが、この記事では、日本の(国交がない北朝鮮をのぞく)東アジアにおける外交政策として扱います。

 アメリカの外交評論家のジョセフ・ナイがまとめた「スマート・パワー」では、軍事力や経済力といったハード・パワーが、文化力というソフト・パワーとともに、国家が戦略を実現させるための手段として挙げられています。

 経済力には、対外援助といった支払いによって外国政府の態度を軟化させたり、あるいは経済制裁を通じて、外国政府の方針を変えさせる力があるとされます。

 一方で、日本の政冷経熱は単に経済取引を通じて外国政府を動かすのではなく、日本に対する友好感情を育むねらいがあります。これはソフト・パワー的な経済力の使いかたです、

 経済力はハード・パワーなのに、ソフト・パワーなんてジョセフ・ナイは書いていないと思う読者もいるかもしれません。しかし、ジョセフ・ナイは、軍事力や経済力といったハード・パワーにも、(強制ではなく)魅力や吸引といったソフト・パワー的な使い方ができると述べています。例えば、東日本大震災における米軍のトモダチ作戦も軍事力のソフト・パワー的な使い方でしょう。また、「経済的な成功はハード・パワー資源のみならず、魅力というソフト・パワーの吸引力を生み出す」とも述べています。

 だから、政冷経熱は、経済力のソフト・パワー的な使い方と分類して良いでしょう。

 ソフトパワーを生み出すためにジョセフ・ナイが指摘しているのは、「 外国から魅力とされる文化を生み、その国が国内外でいつでも守る政治的価値観であり、外国からも倫理的で正しい外交政策とされるものである」ことです。

 ここで「その国が国内外でいつでも守る政治的価値観」が、安倍政権の対韓外交のネックになります。安倍政権の対韓制裁は突きつめると、韓国の裁判所の判決への反発です。しかし、日本国内において、安倍政権が裁判所の判決に従わない、それどころか制裁を科すということがあるのでしょう。

 例えば、ハンセン病患者への補償問題(過去にハンセン病患者が不当に隔離されたこと)でも、安倍政権は裁判所の判決に従っています。

 それなのに、韓国の裁判所の判決には、安倍政権は反発して制裁を発動しました。

 もちろん、安倍政権はいきなり制裁を始めたわけではなく、韓国政府への外交的な働きかけが目立った反応がなかったからです。

 しかし、外交的な思惑はどうであれ、安倍政権の対韓制裁は、戦後日本の外交政策を転換させるものです。つまり、過去の外交の成功体験が役に立たないのです。将棋や囲碁でいうなら、定石のない未知のゾーンに突入なのです。

 さて、そんな安倍政権の成算はなんなのでしょうか。

 報道によると、対韓制裁について河野太郎外相は「トランプ流でやれ」と指示したそうです。つまり、定石はトランプ大統領の対中制裁なのでしょう。

 しかし、これはおかしな話です。トランプ大統領の対中制裁はアメリカと中国の間の制裁合戦がエスカレートする一方で、まだ成果を挙げていません。現在進行形の政策なのです。これで、トランプ大統領の対中制裁は成果を挙げていると言えるでしょうか。

 そもそも、アメリカは世界に冠するスーパーパワーですが(経済力でも軍事力でも世界に抜きん出ています)、アメリカ一国主義を取った場合、そのスーパーパワーにも関わらず、国際社会の中で失敗しています。

 ブッシュ大統領(当時)の時代のイラク戦争がそうです。大量破壊兵器をイラクが秘密裏に開発したという誤情報に基づいて戦争を始めましたが、大量破壊兵器は存在せず、アメリカは多大な国力を浪費しました。

 もし、トランプ流が定石の対韓制裁なのなら、アメリカと中国がそうであるように、互いの政府のメンツを守るために、今後も日韓関係関係は悪化をたどるのではないでしょうか。

 なお、トランプ流の制裁が効果をあげた例もあります。メキシコの関税引き上げです。メキシコ政府はトランプ大統領の要求を飲み、不法移民取り締まりを約束して、制裁を回避しました。ただ、反移民政策はトランプ大統領のお気に入りの政策なので、トランプ大統領対メキシコ政府の問題かもしれません。大統領選を来年に控え、トランプ大統領へのプレゼントに、トランプ大統領の支持者に人気の政策を贈ったのです。

 また、日本の制裁が過去に失敗した例もあります。90年代、橋本龍太郎首相(当時)の時代、橋本首相が「大量の米国債を売却しようとする誘惑にかられたことは、幾度かあります」と発言して、日本の株価が暴落したケースです。

 アメリカ国債を売るのはアメリカへの嫌がらせですが、それでアメリカ政府が債務不履行(国家の破産)すると、アメリカ経済が混乱して、回りまわって日本の経済がダメージを受けると、市場が判断したためでした。

 もちろん、韓国の日韓請求権協定違反に処罰を与えるべきだという意見もあるでしょう。孫子も、将軍の資質として仁(兵士を慈しむこと)の他に、厳(規律を守らせること)を挙げています。

 しかし、与える処罰が過大すぎるなら、別の問題を引き起こします。

 例えば、ある国が「銃弾を一発でも撃ちこまれたら、核兵器で報復する」と宣言したとしましょう。この宣言は守られるでしょうか。

 こんな宣言を厳格に守っていたら、世界で核戦争がひん発します。だから、結局は守られません。

 安倍政権の対韓禁輸も、弊害の方が大きいのではないでしょうか。韓国内での不買運動による日本製品離れ、韓国からの観光客の減少、韓国が半導体製造のために日本から輸入している(禁輸されたものとは別の)製造材料、あるいは製造装置の輸入量減少。また、韓国製の半導体は世界シェアを4割から7割を占め、アップルやグーグルなどの世界中のハイテク企業から採用されています。パソコンやスマフォ、タブレットを製造できなくなります。だから、世界経済のサプライチェーンを壊すのが対韓制裁です。もちろん、日本人も被害を受けます。

 また、対韓制裁に賛成する人の中には、「たった三種類の材料を禁輸するだけで韓国経済の息の根を止められるなんて、なんて日本はすごいんだ」と思うかもしれません。

 しかし、「ポスト・デフレ経済」の記事でも書いたように、戦略資源を狙い撃ちにした制裁は決して無敵ではありません。

 アラブ諸国の石油禁輸は世界的な石油離れを招く一方、割高な石油の生産目当ての非OPEC諸国の石油産出量が増加して、アラブ諸国の力を弱めました。

 また、尖閣諸島問題における中国のレアアースの対日禁輸では、当初こそ日本企業は混乱しましたが、日本企業は技術革新によって、レアアースの使用量を減らしたり、まったく使わなくなりました。

 ジョセフ・ナイが「スマート・パワー」で敏感性(この場合、制裁によって経済が混乱すること)と脆弱性(制裁の影響を回避するために払う労力)と説明したことです。

 韓国企業の混乱は制裁開始の当初のもので、数年単位で見れば、韓国企業の日本離れを招くでしょう。韓国政府は日本から禁輸された三つの半導体材料(フッ化ポリイミド・EUVレジスト・フッ化水素)を含む半導体材料や製造装置の国産化を支援するために、毎年およそ一兆ウォン(約900億円)を予算化する方針です。

 また、国産化が軌道に乗れば、逆に韓国から日本への半導体の禁輸という経済制裁が可能になります。日本は電子機器を作るのに欠かせないDRAMなどの半導体部品を韓国に依存しています。韓国のDRAMの世界シェアは7割を超します。おまけに日本にはDRAMを作るメーカーは一社もありません。安倍政権はパンドラの箱を開けたのではないでしょうか(もちろん、将来の憶測なので、どうなるのか責任を持って述べられません)。

 また、政冷経熱という戦後日本の外交政策を政冷経冷に転換する以上、日本政府が日本との間に問題が生じた国に、新たに制裁を加えるということもあるでしょう。トランプ流で行こうというわけです。

 そうすると、経済的に日本に依存することがカントリーリスクだと国際社会から見なされるかもしれません。そうなれば、結局損をするのは日本です。

 対韓制裁は、ただ徴用工問題への反動でもなく、韓国嫌いのうっぷん晴らしのためでもなく、戦後日本の国是の変更としてとらえるべきです。
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